夷隅の起源

 我が夷隅郡の建設年代ははっきりとわからないが、古事記や日本書紀による国造は下総では下莵上、印波、千葉、総の四ヵ所で、上総では上莵上、馬来田、伊自牟(夷隅)の三か所。安房は長狭が一つで八国造である。

 旧事記の伝える所は、下総に印波、下海上。
 上総に上海上、武社、菊間、馬来田、伊甚、須恵。
 安房の安房、長狭。
 即ち十国造である。

 いずれが正しいのかわからないが、半島の自然を見てみると山河の形勢や発掘された幾多の古墳から推測すると旧事記の記載が事実に近いように感ずる。

 安房地域は多くは丘陵で平地は内湾では平久里流域、外海では鴨川流域のみである。

 上総国の大半は山地で、養老川の流域は今の市原郡、小櫃川の流域は旧望陀郡、小糸川の流域は旧周淮郡である。

 我が夷隅川の流域は今の夷隅郡で、武射は平原なれども鳥喰沼に沿った平原である。
 山河の形勢は小規模だが天然の境界を形勢している。
 兎に角、我が夷隅の地は当時、伊自牟、伊甚として国造が置かれていたことは昭々たる事実である。

 されど、その年代は明確ではないので、これを歴史に求めても、正確な史籍はなく、口碑に求めても巷説紛々として補足できず、筆者の想像により妄断を下すのみである。

 それは、日本武尊の東夷を征せんとして駿河に至るや国造りにあざむかれて大難にあい給うと云い、又景行天皇の皇子七十余人は皆国造り及び稲置となれりとの史実から考察するに、国、縣、制の設置は成務天皇より遥か以前であることは疑う余地はない。

 すなわち、伊甚国造りが置かれたのは、今を去る一千七百八十年の遠き昔より以前であることは明らかに歴史の証明する所である。

 国造り本紀にあれば神武天皇の当時すでに国造縣主を置いて功臣を補せし由なれば、伊甚国造りもその時代に置かれていたと考えられる。
 これらの事実より想像して二千有余年前と見ることができ、、筆者の独断的妄説ではない

 人皇第十三代成務天皇の即位五年九月諸国に命令して国郡に造長を立て、縣邑に稲置きを置き、並びに楯矛を賜いて以て表とし、山河を隔てて国、縣を分け、仟伯(人口)にしたがって邑里を定め、あらたに六十三国を建てて全国を九十一国となし、上総には須恵の国造り、馬来田の国造り、上海上の国造り、伊甚の国造り、武社の国造り、菊間の国造りが存在した。

 これを観れば我が房総の地は、神代の昔において、天孫人種によって開拓され、文化は比較的進歩していた。

 
 変遷郷荘分合
 
 奥津。上古の時代の事は文献もなく詳しく説明することは難しいが、古代には一部落を形成していたことは色々な事実から証明することができる。

 初めは夷隅郡に属していたが、中古以降荘園がようやく広がってきたが、国司の治替りや郡郷の制度が乱れると、便宜上部域を分けてその呼称を設けた。

 当時本村は、伊北荘に属していたが、いつ頃か伊保荘と称した。和名抄に置津と載っているのはすでに前述したとおりである。
 
 当時置津は此の近隣に於ける唯一の良港で陸路上野郷に通じて行き来をし、水陸交通の便を有しており、自然物資の集散地となり隆盛を極めた。
 
 住民の生業は概ね漁業で農牧に従事する者はまれで、穀菜の供給は多くを上野郷に仰ぎ興津は相互市場の地域であった。
 これを考えれば古代奥津が隆盛であったのも偶然ではない。

 その後、幾多の変遷を得て元亀・元文の時代に天下麻のごとく乱れ、群雄割拠し、朝に剣を磨きたるごとし争奪を事とし、秋には安房の里見氏は当初要害を修めて厳然と房総を雄視したことを見ても、城下として繁栄を極めただけではなく軍事上枢要な地点であった。
 
 徳川氏が参勤交代の制度を設けると
奥津は江戸より海路仙台に通ずる交通の要衝であったため、東北諸州の多くの船舶は停泊した。

 仙台藩は取締所を本村に置き、仙台から回漕してきた囲米を積み、波止場を弁天岬の東椎島に築設し停泊していた。
 
 当時は汽船はまだ盛んではなく、水上物資の運搬は大小の帆船によって行われていた。
 奥津はこの木船舶の薪水供給所とし、優れた避難港として常に港内に船舶が輻湊(ふくそう)し帆檣(はんしょう・帆柱のこと)林立し市街非常に殷賑(いんしん・にぎわいのこと)を極めた。
 国号の起源

 本村の属する我が房総半島の開拓は実に遠く、神代の昔にありて天穂日命の子、天夷鳥命、即ち建比良鳥命の子孫であると伝えられている。

 命は武甕槌尊の副将として出雲朝廷を屈服させた元勲で上莵上(上海上)下莵上(下海上)及び伊甚(夷隅)等の国造りの祖先である。

 その開拓の地域や年代は歴史上明らかになっていないので軽々しく決めてけられないが、神武帝の東征より遥か以前であることは疑う余地はない。
 
 古語拾遺によると、神武天皇即位した頃、天富尊は沃壌を東土に求めようとして、阿波の斉部を率いて今の安房の国に渡来し麻穀の蕃殖を図り、その好く麻の生ずる所を総の国と云えり。

 これは即ち今の我が上総下総及び安房三国の地である。
 後に分割し上下両総とし人皇第44代元正帝の養老2年5月に至り、始めて我が上総の地を割って新たに安房の国を置いた。

 然るに第45代聖武天皇の天平13年12月に再び安房の国と上総の国をを統合させ、次代の孝謙天皇の天平宝字元年5月舊により、安房の国を復せしこと続日本紀の載する所により明らかなり。
 
 始めは総の国と称したり。これ古語に麻を総と言い、好麻の生する所を以て名づけたと言う。
 上下両総に分れて上総国となし当時は加三豆不佐と訓し加豆佐と呼ぶようになるのは後世の事に属す。(和名抄)

 興津港

 興津港は日本東北地方の南岸に位置する唯一の港である。故に名づけて置津と書かれていたと言う説がある。
 
 古代社会で組織があいまいな時代にあっては文字の違いなどは念頭になく、音が同じであれば色々間違うこともあったであろう。置津がいつしか奥津として使われるようになり、明治9年の地租改正の際、興津となった。

 中古の時代、上植野や大森一帯の山林を総称して官林と言った。
 ここから産出する薪、炭材類は概ね上植野字平山を経て経淵(興津)の脊梁を下り、現在の興津港に搬出したことにより、
奥山の港という意味で奥津と呼んだと言う説。

 徳川時代には奥津は仙台伊達候の江戸屋敷と領地の交通上船舶の中継港として重要に見ていた。
 当時は非常に繁栄を極め、江戸より仙台、即ち
奥へ渡る港の意味で興津と称したという2説がある。
 勝浦市史通史編236頁の第2章古代
 第2節「勝浦の奈良・平安時代の姿」に
同様の記載があります。
 そちらの方がわかりやすいと思われます。
 興津の地名

 奥津。
 本村の地名が最も古く歴史に見ることが出来るのは「置津」である。
 
 和名類聚に安房国長狭郡置津(乎木津)と記載されている。
 当時、夷隅郡には雨霑(うるひ)、蘆道(いほち)、荒田、長狭、白羽、餘戸(あまべ)、の6部落があるが、今になってもそれらがどこを指すのかわかっていない。
 
 恐らく昔の荒田は今の新田野東村、長狭は長志東村、蘆道は今の深谷(国吉町)か島(国吉町)ではないかと指摘があるが誰も的確ではない。

 このように和名抄に載っている夷隅郡の各部落は主として郡の北東部に偏在し、西南部に在っては何らその跡を見つけることもできず、夷隅郡の清海村付近は当時安房の国に属していたものと思われる。

 上総国誌稿においても今夷隅郡に興津あり、けだしこの近傍数村は中古の置津郷を地にして安房に属し、後に本郡に入ったが、その沿革年月はわかっていない。とある。

 境界もよくわかっていないが、地勢によってこれを考えればに西は植野村の西北を堺に山を下り、夷隅川の上流を渡り、東は松部と鵜原の間にある黒鼻の岬の角に至るをもって堺とする。


 もしそのように判断すれば台宿、上植野、名木、大森、中里、赤羽根、植野、中嶋、鵜原、守谷、興津、浜行川、大沢の13ヶ村は中古の時代は興津郷であったであろう。

 そもそも和名類聚鈔は人皇第六十二代村上天皇の御宇梨壷の一人であろ源須の勤子内親王のために著せしものにして、今から実に960有余年のものであり、この時代に置津があった。

 その建置の年代は不詳であるが、これより以前に興津があったことと断定するに躊躇はない。

 
 清海村の起源
 
 昔から清海とは、現在の興津、鵜原、守谷、浜行川、大沢の5区を統括する行政上の名称で、明治22年4月1日の市町村制実施に際し命名したものである。

 古くは興津村、守谷村と言っていたが、今日の各区は独立してこのようになっている。

 では、興津村の起源について語ってみよう。

 興津村の開拓年代は詳しくはわからない、太古の時代に天富命は安房の国の布良崎に着いて開墾農耕を教えたと伝えられ、安房斉部の一部を率いて今の上野村名木に移り、名木細殿丘(
なぎほそどののおか)の古墳は「御木斉部の墓なり」と言う。

 又、天富命は更に天日鷲命の子孫である勝占忌部を配して麻穀の蕃殖を奨めたと言われている。

 しかしながら、勝浦は東、北、西の三方は山に囲まれていて、南側は海に面した土地であり耕すような土地もない。
 麻穀の蕃殖を行おうとすれば肥沃な土地を選ばざるをえない。
 斉部はこの興津村に住まいを構え、背後の平坦な上野に蕃殖を行っていったものと考えられる。

 上野はその昔「植野の郷」と言っていた。
 今の総野村もその一部で、興津村の須野原は「洲に近接せる平原」の意味であり、地勢上から判断しても古代は植野の一部分であったと思われる。

 須野は2500年以上前に、天孫人種の手によって開拓されたすばらしい開墾地である。これは筆者の勝手な判断ではなく、上野平原は勝占斉部が配置させられた勝浦と、香斉部が住んでいた名木との中間で、この付近では唯一の平原であり、疑いをはさむものはいない。

 須野にほど近い守屋(守谷)港には大きな石穴がある。これを発掘すると石廊があって、中に骸骨12と土器2個が発見された事実がある。

 守谷浦と言われる所は所在がはっきりしないが、守谷湾の東部沿岸に藻浦(茂浦)と呼ばれる所がある。
 現在は広くはないが、往時は今より比べ物ならないくらい広かったと思われる。
 幾百千年の間、大洋の不断の波に洗われて、海岸が次第に浸食されて、現在の地形となった。
 
 現に藻浦の海岸から数町の海中に井戸のあとがあり、屋敷跡と呼ばれる所があることを見てもわかるように、この地が所謂守谷浦であろうと思われる。


このページは、清海村誌の第十章の町村沿革誌を中心にまとめたものです。
鈴木進さんがまとめた興津郷土史にも掲載されていますので、出来るだけ原文に沿って私なりに整理して掲載してみたいと思います。
それにしても、漢字が難しく、漢和辞典に載っていないものがたくさんあります。 ふう〜!!!
興津と町村沿革誌