「ところで、アワビはどのようにして都まで運ばれたのであろうか
 
 木簡には、アワビを六斤としている。
斤は重さの単位で、
     1斤=16両
     1両=24銖
とされた。
 
 今日の重さの単位に換算すると一斤は約600グラムで、六斤では3.6キログラムとなる。

 これだけのアワビを都に運ぶに当たって、安房国から都まで延喜式の旅程の規定では、行きに34日、帰りには17日を要することが規定されており、当時では生かしたままのアワビを運送することはできないであろうから、主には乾燥させるなどの加工を行っている。

 その種類は『延喜式主計上』の諸国が運送すべき調の品目の中に、「御取鰒」「鳥子鰒」「都都伎鰒」「放耳鰒」「着耳鰒」「長鰒」「耽羅鰒」「短鰒」「凡鰒」
「串鰒」・・・・といった種類の加工された鰒が記されている。

 これらについて、それぞれどのような加工なのか分かり得ないが、置津郷から運ばれた鰒が「凡鰒」という形で運ばれたことがわかる。
 
 
長狭郡置津郷

 守谷・興津・浜行川地域と考えられるが、この地の丈部(はせつかべ)黒秦の一家に属する丈部第と言う人物がアワビを六斤運ぶ任務に当たるというもので、国から任命された国司四等官のうち最下位である目(さかん)の箭口朝臣大足と地方官である長狭郡の郡司四等官の第二位である小領の丈部臣■敷という人物が、天平年間(729〜749)に証明を行っていることが分かる。

 かって置津郷であった守谷の海岸崖部に営まれた守谷長網横穴群は、古墳時代から奈良平安時代の家族墓である。
 この横穴群中の三号横穴から八世紀初頭の須恵器長頸瓶とともに出土した熟年期男性の頭骨には、耳穴部分に潜水漁に携わる人々に特徴的にみられる外耳道骨瘤という病理所見が確認されており、生前この男性が潜水漁に携わっていたであろうことを証拠づけている。

 この横穴墓の最盛期が八世紀であることは、置津郷木簡に記された「天平」年間にちょうど符合する時期でもある。

 この男性が潜水漁でしか漁獲できないアワビ漁に従事し、彼らが捕獲したアワビが遠く奈良の都に運ばれていたことを強く物語っているものといえるのかもしれない。
 アワビ木簡と勝浦

 海に面した当地方から都に運ばれた物資のうち特徴的なものとして海産物をあげることができる。
 
 このうちアワビは、古来から滋養強壮効果のある薬膳の一つとして珍重されており、殿上人の間にあっては長寿延命の食材であった。
 
 このアワビは本市を」はじめとした房総沿岸の岩礁地帯においてアマによる潜水漁で捕獲されており、今日でもこの地方の産物として知られるところである。
 
 『「延喜式巻第三十九「内膳司」』の祭礼に用いる諸物の中には「東鰒(あずまあわび)」あるいは各種の「鰒」の記載が数多く見られ、アワビが宮中での祭礼に欠かすことのできないほどの位置を占めていたことが分かる。

 木簡は、荷物を運ぶ際に荷物につけられた荷札で、今日の宅配便等につけられた送り状と言える。
 
 この木簡には、この木簡がつけられた荷物の中身や目的、これを送り出した国郡郷(里)名、人名、年月日等が記されており、簡素ながら非常に多くの情報を伝えてくれる。
左の文字が書かれていた木簡は
(縦49.6 × 横1.8センチ)
長い棒状になった木簡。
縦一列で書かれている。

唯一、勝浦市の中では「興津」(木簡では置津)の地名が確認できるもの。
置津からアワビ(鰒)6斤を運ぶことがわかる。
下端は削られているようで年号等が不明である。

と市史では記している。
検出場所は
平城宮内裏東方東大溝地区
安房国長狭郡置津郷戸主丈部黒秦戸口丈部第輪凡鰒陸斤 専当/国司目正八位下箭口朝臣大足/郡司小良外正八位上丈部(臣) ■敷 天平■■
 都に残された郷土の歴史

 古代における当市域の様子については、今日まであまりよく知られてはいない。
 これは、当時のこの地域を取り上げた記録があまり多く残されていないことと、更に当地において古代を説き明かすべき考古学的な発掘調査がほとんどおこなわれていないことの両方による。

 こうした中で当地から遠く離れた奈良時代の都の平城京において、当地方の古代の様子をかいま見ることのできる資料が見いだされている。それが木簡や正倉院に残された布帛類に記された墨書である。

 木簡は中国に起源を発するもので、紙が発明される以前に文字などを書き記す材料として用いられたもので、我が国においては紙が使われる奈良時代にあっても日常的に用いられており、素材として木片が使われた。

 木簡の用途は、荷物につけられた付け札や文書、習字等のためのものなどであり、その形態は先を尖らせたものや端部に切り込みを入れたもの、単に短冊状になったものなどがある。

 大きさも10センチ前後から1メートル前後までさまざまである。
 形や大きさは用途・目的によってほぼ決まってくるようである。
 また木簡は、表面に書かれた文字を削って再使用されることも多く、文字の書かれた削り屑が調査で検出されることも多い。

 正倉院の布帛は、調や庸として納められたもので、端部にこれがどこから何の目的でもたらされたものか墨書きされている。

 本市の属する安房国長狭郡や上総国
夷?郡に関した木簡は、当時の郡域である平城京(宮)を中心とした遺跡発掘調査により水に漬かった状態で検出されている。

 また、今日発見されている長狭郡や夷?郡に関する木簡は、送り主の国郡郷里戸主氏名・税目・数量・年月日などが記されているが、今日では判読が難しくなっている。
 
古代の興津について勝浦市史通史編244ページから252ページより抜粋掲載しました。

興津と平城宮