連載 11  和田義盛別伝2

 治承4年(1180) 源頼朝が鎌倉で再起。
  義盛は鎌倉幕府の創立に大きな功績を残し侍所別当となる。
 
 建保元年(1213) 義盛は北条義時に対し兵を挙げるが戦死。
この時義時の住まいは伊北荘であった。

 「夷隅町史 通史編」によると、伊北荘における義盛の居館はどこに所在したしたのか不明であるとしながらも、荘内の平地または微高地にあったと推測している。

 「勝浦市史 通史編」259ページでも、現時点でいずれからも発掘調査結果が得られていない以上、不明と言わざるを得ない。と記している。

 
「興津郷土史」の中で鈴木進氏は自身の考えとして

 
義盛は1213年は伊北荘の伊保に居り、居館は夷隅郡引田村にありと言われている。
 興津は伊北荘または伊保荘に存在し、その子孫が安房、上総に多数扶植したことも想像されるので、義盛は奥津城に居たと推測している。と記している。

 
  興津に住む私は、そのロマンを理解するものであります。

 和田義盛は建保元年(1213)に戦いに敗れたが、
長男常盛が甲州に逃れ、その長男朝盛が源実朝の眷遇を受け、その嫡子家盛は安房の佐久間に移り住んだ。
  
 承久2年(1221)家盛は父朝盛と反対側の北条側に参加し戦功があり、尾州御器所を賜り、孫の
重貞を奥津城に配したのである。
 
 「夷隅風土記」では正嘉2年(1258)佐久間
重吉重貞親子築城とも言われる奥津城が、1213年に存在したのだろうか?
 あるいは、1221年には存在したのだろうか。

 
 いつ、誰が奥津城を建てたのか。義盛はどこに住んでいたのか。
 永久に判明しないと思われる課題である。

連載 10  和田義盛別伝

 
三浦一族に関し、詳細戦記を書いてきたのは興津妙覚寺と佐久間重郎左衛門重貞との関係を究明する上で必要であった。

 和田氏姓は三浦、その先祖は上総介高望。
 高望の孫、貞道は源頼光に仕え源綱等と称す。
 その子、為道のひ孫
三浦義明の孫義盛に至り、伊豆国の和田にいる。よって和田氏を名乗る。

 後年義盛は夷隅郡におり、建保元年(1213)伊北荘伊保に居館ありと伝えられた。
 和田義盛は本姓平氏。杉本義宗の子にして、三浦義明の孫で初めは小太郎と名乗った。

 豪勇で力強く、源頼朝の兵が伊豆に挙げるや一族相模国衣笠城に拠り、これに応じて畠山重忠と戦うも頼朝軍が石橋山の戦いに敗れて行方知れずになった時、義明はとどまって死し、義盛、義澄等は船で房州に逃れた。

 鎌倉幕府の柱石になった和田義盛は建長元年頼朝に従って上京し、左衛門尉に任ず。
 
 上総で所領を加えられた伊北荘(または伊保荘)の里伝によると、義盛は夷隅郡伊保にいる。
 夷隅郡引田村に城址あり。その地を伊保と称す。

 また里伝に曰く、市原郡池和田村に義盛の長子和田太郎がいるから和田村と称するとある。
 建長元年辛末上総国司に任ぜられんことを願い入れたが、聞き入れられず、遂に乱を起こしたために射殺された。

連載  9  御器所城と奥津城

 
佐久間家盛は承久の乱の戦功による恩賞として尾州の御器所を領し、旧地領であった安房、上総と広範の地域に大きな勢力を扶植した。従ってその所領の地の城主についても大小の城にそれぞれ軍功に準じて眷続軍神を配した。

 孫の
重郎左衛門重貞を奥津城に配し海陸の護りを巌にし、出城に重臣を配したのであった。又、重貞氏長子勝正氏を尾州御器所城主となし、東西に強力な勢力を扶植したのである。

 奥津城は要害堅固の山嶺にあり、北方は上野方面を遠くは大多喜城に対し、東南並びに正面、南方はいずれも海に面し、東方は勝浦城と吉尾城を配し、西北に麻綿原や筒森の森林と清澄三山の峯々(初日峯、南天神、妙見山)を望む要害の地で、山嶺は枡形をなし、二ヶ所に平坦地があって城郭の地下に守谷に通ずる抜け穴が設けられているのが城郭の跡となっていると伝えられている。

 本城は正嘉二年佐久間兵庫亮重吉、その子重郎左衛門重貞がその処にあり、現在の妙覚寺敷地を居館としていたのである。

 文永二年重貞氏は日蓮聖人に帰依して、この処の居館を日蓮宗最初の道場として寄進し、妙覚寺とした。
連載  8  家盛佐久間姓を称号す

 
朝盛の嫡子家盛は三浦一族の所領であった安房の佐久間に住し、初めて佐久間の姓を名乗り称号す。
 これが佐久間の始祖となった。

 承久の乱には父朝盛とは反対側に立ち北条方に味方し、子の
佐久間兵庫亮重吉と孫の重郎佐衛門重貞の長子勝正等を率いて北条恭時の軍に参加し、宇治川に於いて戦功を立て、戦勝後尾州御器所を恩賞として受領した。

 御器所とは尾州御器所のことで、現在の名古屋市昭和区御器所町尾陽神社こそ佐久間氏の城跡であり、古城落月の姿である。
 同町瑞雲山竜興寺内に昭和11年7月建立と碑がある。

 佐久間美作守家勝、同民部承助安等、子孫代々この城にいる家勝の先祖は三浦一族にして将軍頼朝の時安房の佐久間を領す。さればこれを姓となす。
 昭和十五年三月 名古屋市教育会

 (沖の書院文典)

 始祖高望王平の姓を賜り、平の朝臣たること真実なれども、源頼朝の御家人につき源家を以って家名を保ちたること、その基本は関東平氏は八幡太郎義家に隷属して後三年の役(為継、義嗣)の代、源氏の御家人として功をたて、もって家門の誉とせり。
 
 即ち八幡太郎義家の武威を御裔の三浦一族に及んだものである。従って源氏を基幹とし三浦姓を称号するに至りいよいよその誉とせり。
連載  7  義盛の長子常盛

 和田一族にとって、北条氏に名をなさしむ結果を招いてしまったが、これは北条義時の謀略が周到で悪辣極まる手段であったことである。
 
 当時、和田義盛の居館であった上総国夷隅郡伊北荘の伊保を義盛が不在中にその子の義直と義重等をだまし、挙兵させた一策を見ても北条義時の策謀師振りが判るのである。

 この建保の乱で和田
義盛の子、義直、義重、義信、義国は父義盛と共に戦死、あるいは叔父の義秀と逃れたかであった。

 長子の和田
常盛はこの時、古郡保忠と共に甲州に逃れた。

 叔父の朝夷三郎義秀は大船を擁して一族郎党等五百余騎と共に義秀の所領であった安房の朝夷に退避した。

 後年、常盛の長子
朝盛は将軍実朝の 眷遇を受け、日夕将軍の許にあって、将軍を援け、最も有能な側近の一人であったことは史実に明らかな所である。

 従って朝盛は建保の乱には大儀名分を説き
「一族に順じても主君に敵すべからず、主君に参ずるも父母に背き難し」として、己の苦衷を脱すべく仏門に入って大悟を得る外なしとの遺言を残して鎌倉を去って突如京都に向った。


 しかし、相模国三浦郡初声村和田に高岡坊と変名して隠棲し、この地で終ったのである。
連載  6  和田義盛

 建保元年(1213)2月、信濃国の泉親衡による将軍実朝の暗殺計画が発覚した。
 
 同月16日、北条義時は和田義盛の子息である義直・義重・甥の胤長が陰謀に加担したとして、彼らを追及した。

 それを受けて当時上総国夷隅郡伊北庄に居住していた和田義盛は3月8日に鎌倉にいる将軍実朝の御所に参上し、子息等の無実を訴えたのである。

 その結果、義盛自身の勲功に免じて二人の子息は赦免されたものの、甥の胤長は一族の面前で捕縛されると言う屈辱を受け、胤長の所領は没収されたのである。

 その後、5月2日、一度は同族の三浦義村の合意を得て武蔵国の横山一族とともに挙兵したものの、三浦義村が北条義時にその謀反を知らせたことにより、幕府の防御を固められ、翌日夕方、和田氏の主流はほぼ壊滅させられた。(和田合戦)

 この戦いで、和田義盛は江戸能範なる者に射殺され、義盛の七子までが戦死し、独り義秀だけは生き残り残兵500余騎と共に海路安房に逃げたのである。
 後年、安房に居住するものがあることを見ると、七子の内の誰かが義秀と共に逃げたものと思われる。

 建保元年5月2日に挙兵して5月5日の僅か3日にして敗滅したのである。
 ここに頼朝の平氏討伐以来幕府の重鎮、侍所別当和田義盛の一党が滅亡して三浦一党の一画が崩れ去ったのである。
連載  5  畠山重忠

 建久9年12月。頼朝は稲毛重成のもとに行われた相模川の橋の落成式に臨んだ帰りに落馬し、それが原因で53歳にして死去したのである。

 その後は北条頼家の時代となったが、頼家が23歳の生涯として終わったのも誠にはかないものであった。

 元久2年7月。畠山重忠は北条時政より鎌倉に難があり直ちに来援せよとの急使があり、手兵僅かに百余騎を従えて鎌倉目指して進軍したが、途中鶴の峰において北条時政の大軍に迎撃されてあえなく戦死した。
 これは全くの寝耳に水で北条時政の謀略であった。

 和田義盛も北条時政にとって頼朝の死後はとかく目の上のなんとかで、邪魔者であったため、謀略が計られつつあった。
 いつの時代でも地位と権力は人を泣かせ、人を殺すものである。
 特に戦国時代は昨日までの友も今日は敵であり、倒すか倒されるかであった。

 和田義盛にとって、大きな落とし穴が設けられていたのである。

 頼朝の旗挙以来和田義盛ら三浦一党の戦功は抜群の恩賞で優遇され、その勢力地位は頼朝将軍に次ぐ程のものであった。
 頼朝の死後は地位を追い落とさんとする北条時政側の策謀により、畠山重忠が謀略に倒れた後は当然義盛に向けられたことは言うまでもなかった。


 世は代わって北条義時の時代となり、その辛辣さは一段と増し、遂に三浦一党を怒らせ、和田父子を怒らせて蜂起せしめたのである。
連載  4  仁右衛門島

 8月28日 勝山村狩嶋に上陸した頼朝一行は仁右衛門島に移り策を練った。
 9月11日 安房本土に上陸し、三浦一族の精鋭400余騎を擁して堂々と再起の理由を宣言し、三浦一族の安西景益、安房、上総、下総の諸国に親書を送り同調を求めた。
 
 これに対し、いずれもが直ちに同意し、館を提供するものや進んで参加を申し出るもの数知れず、先陣を和田義盛が承り、後陣は勿論義澄に託し、下総の千葉介常胤も進んで参加した。
 武総の諸将が参加して、日ならず十万の大軍を擁しての堂々たる進軍であった。
 
 これは頼朝の以仁王(もちひとおう)による令旨の伝達受領と平氏の専横を討伐する大義名分があったことと、安房の国には三浦一族、即ち源氏の流れをくむ豪族や城主が多かったためである。

 
 頼朝が旗揚げして石橋山に敗れ、安房で再起し武蔵、相模を席巻して鎌倉に幕府を置いたのが治承4年10月28日であるから、敗走して僅か67日でその目的は達成されたのである。
  かかる神速破竹の成果を納めるに至ったのは、言うまでもなく三浦一族の結束であり、三浦義明の先見の明と鋭智の偉大さに外ならない。
 
 (注 以仁王は治承4年平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した)
連載 3  石橋山の戦い

 一方頼朝は、敵味方をあざむく「頼朝戦死」の情報で敵を完全に謀略の手中に納め、箱根山内の社堂に隠れた。
 
 25日。土肥実平の弟の行実とその弟永実等の庇護を受け、土肥実平、岡崎義実等と密かに真鶴より出航した。
 
 しばらくの後、この源頼朝と義盛の両者が海上で出会うと言う劇的な場面が展開された。
 不思議な主従の縁であった。
  一説によると、この時急に波浪が高まり、しばしの間漂流したが難を逃れるために、或る津に逃れた。
 
 浪がなぎ、頼朝一行は勝山の狩嶋に到着し上陸した。
 三浦義盛は
に上陸し陸路安房に向かった。
 この途中頼朝の親書を携えて参加を誘ったと伝えられている。
 
 この義盛が上陸した津を
「沖の津」と仮称したことにより、後年和田義盛の戦功にによりこの一地方を恩賞として賜った。
 
 更に、家盛の時代に北条泰時を援けた戦功で、再び三浦の後裔である佐久間家盛御器所を恩賞として受領し、奥津城に重郎佐衛門重貞を置き、重貞の長子勝正を御器所の城主とするとあり、三浦一族と深い縁のある奥津であった

連載  2  石橋山の戦い

 三浦義明、義澄、
義盛父子一族は頼朝の旗挙に参加する筈であったが、大雨で河川が増水し軍馬が渡れず、戦場を目の前にして如何とすることもできず時を過ごしていた。
 
 24日。
和田義盛は丘に上り対岸を見ると川の西方に武者が1人川を渡ろうとしていた。 早馬を送り武者を助けたが、この武者こそ頼朝軍に属した大沼三郎であった。
 大沼に、「無念ながら敗れ、頼朝軍は大かた戦死した」と告げられ義盛は落胆し,陣を引き払い大沼共々衣笠城に帰城した。
 義明にこの旨を報告し今後の対策を打ち合わせた。
 
 26日夜。 義明は一族を集め「頼朝は負けて死ぬような方ではない、皆は今から安房に渡り頼朝を助けよ。私は歳をとったので死んでも悔いはない。ただ頼朝の偉業を見ないで死ぬのは残念である」と申し渡した。
 私は落城を食い止め、一族がここにいるように見せかけることにする、皆は密かにここを出発せよと命令した。
 26日深夜。義澄、義盛とその家来はただちにに出発し久里浜に到着した。

 
 27日朝。父の指示する安房に向かって出航した。
 その後無事に出航した情報を聞いた義明は、夫人と家臣の小川左源太径明、右源太径次等を従えて城内本郭で自刃し89歳の生涯を断ったのである。

連載  1  石橋山の戦い

 治承4年8月17日、源頼朝は33歳の時、平氏に対する積年の恨みを晴らさんと伊豆で兵を挙げた。
 
 北条時政、土肥実平、岡崎義平、真田義忠、足立盛長、土屋宗達など300以上の騎兵を従えて、まず判官平兼隆を打ち取り、8月20日伊豆を出て相模にでた。
 
 8月23日相模の国足柄郡石橋山に戦陣を構えた。
 8月24日卯の刻、梶原平三景時ら平氏は3000騎の兵を率いて石橋山の東側の麓に至り、谷を隔てて頼朝の前面を遮断して陣営を敷き、同時刻に背後に300余騎で挟み撃ちの作戦を取った。
 この夜は大雨で最悪の夜戦であった。
 ここで頼朝軍に総攻撃をかけた。
 
 戦闘は壮烈をきわめ、頼朝自ら奮闘するも随所で敗れ、側近が頼朝の身の危険を感じ、撤退再起を進言した。
 佐々木高綱、天野遠景達は頼朝を助け、土肥実平を先頭に狩親光、加藤時政を率いて、危険を冒しながら逃れた。

 
 しかし、大勢の避難は大変困難であり、この時、謀議をはかって頼朝が戦死した噂を流し、少数で西足柄郡の山林中に隠れた。
 勇将の武士には、安房の国で再起の旗挙げを約束し、必ずその時は参集するようにと確約し、頼朝戦死の流言を敵味方共に信じさせることに務めたのであった。

清海村誌や興津郷土史を参考にしています

興津物語1部