連載 6    ご尊像

 東海村の山師某は霊木の恐ろしさに心からお詫びしたいと誓ったのであったが、遂に病死したそうである。

 更に不思議には紀州生まれで樟脳屋の己之吉は、その霊木をだまして一本差し加えて売った事を朝岡家へ使いをよこしてわびられたそうであるが、この人も病名の判らない病気になり死んでしまった。

 この因縁つきの楠の霊木は噂は噂を生んで、買い手ももつかず、そのまま放り外しになっていた。

 これに目をつけたのが、興津在の上野村字細戸の平十郎といって、その辺きっての資産家であった。

 
 平十郎は長屋門を建てなおすため、興津の大工嘉兵衛、嘉助の両人に依頼して楠の霊木を買い求め細戸に引き取り仕事小舎に運び入れ仕事にかかる予定であったが、怪火か起って霊木はもちろん小舎全体、大工の道具まで一切焼いてしまった。


 その楠の木の長さ一丈五尺、厚さも相当、幅は三尺もあって、立派な良材であった。

 当時の事情を語ってくれたのは栗原丑太郎という左官職で、妙覚寺近くの要子庵に居住している。(現当主栗原留吉氏養父)
 
 野村善蔵氏は大正二年の末に死なれたが、大工嘉兵衛という人は大正十一頃迄御存命であった。

 大工嘉助も今は亡き人たちです。その御子孫は現在それぞれ存在しております。(藤田東撰氏 法悦の下に)
連載4    妙覚寺

 妙覚寺の「布引祖師」と言う御尊像は、白布で街を曳き回し、悪疾退散を祈願した因縁深い御尊像で、身延山の御尊像をお作りになられた日法尊者の作で、妙覚寺の御宝物として二体存在するのはめずらしいことである。

 小さい方の御尊像は聖祖から直に奥津城の佐久間氏へ送られたもので、大きい方は佐久間氏が材料(楠の木)を提供して日法尊者に作っていただいたものである。

 興津の御尊像は黒色で腰から下は金蒔絵風に金粉で彩色してあるが、腰から上を塗ろうとしたら、仏師屋の腰がぬけて、色を塗ることが出来なかったという伝説がある。

 小湊誕生時の御尊像は明治になってから純白に塗られ、普通のお寺の祖師のようになってしまった。しかもその上に額に疵をつけており、白い玉をはめ込んである。
白毫相のつもりであろう。


 せっかくの御尊像を塗り潰すことが良い事かどうか判りませんが?


連載5    ご尊像

 佐久間氏家臣の朝岡源左衛門と言う人が、久保山の関の台から伐りだした「楠の木」がこのご尊像の元木である。
 子孫の当主源八郎は昭和になって亡くなった。

 佐久間重貞の時代に伐り払いだ幹の三本が明治になり周囲六、七尺の太さとなった。

 明治の初期、朝岡源左衛門の子孫の虎吉さんが中の一本を残し、他の二本を紀州生まれの竹内己之吉という樟脳屋に売り払った。

 ところが、竹内己之吉は更にこれを上総夷隅郡東海村字布施の山師某に残すはずの一本を加え、三本共売り払ってしまった。

 経過を知らぬ山師某は約束通り久保山に入り樟脳採集のため三本とも伐り倒してしまった。

 これに驚いたのは虎吉さんで、親類の野村善蔵さんと連れだって現場へ出かけ、交渉を始めたのであるが、この時すでに三本伐り倒してしまったあとで、東海村の山師某は事情を全く知らずに買ったこととはいえ、驚いたのみならず、その時から腰が抜けてどうにも動けなくなっていまった。
連載 3  妙覚寺

 広栄山妙覚寺は日蓮上人の開基で、日蓮宗最初の道場である。境内四千余坪、末寺二十五を有し、従来は「無音寺」と唱え他寺の管理を受けず、明治七年初めて身延山の管理に入った。

 寺の言い伝えによると、文永二年十月、西暦千二百六十三年奥津城主佐久間重郎左衛門重貞が日蓮に帰依し、その弟竹寿丸(寂日房日家)と自身の次男(美作公日保)を日蓮の弟子とした。

 後年ともに中老に加わることになるが、日家は小湊の誕生寺で、日保は興津妙覚寺の二世となった。従ってこの二つのお寺は「一根起蓮」である。

 日法尊者作の聖人像は興津久保山関の台にあった朝岡源左衛門所有の山林の楠の木を妙覚寺に寄進したもので、この楠を用いて上人の御尊像三体を彫り、その元木を妙覚寺、中木を誕生寺、末木を行川大聖寺に安置したと言われている。

 これにより、三つのお寺は「一木三体の御尊像の寺院」と言われている。

 文永二年十月に興津一帯で悪疾が流行した時、佐久間重貞は日蓮聖人を招いて悪疾退散の祈願を依頼した。

 日蓮は一尺余りの石に、南無妙法蓮華経の題目を書き、経文をしたため清流に投じ、その水を飲ませたところ全治したと言う。
 これが釈迦本寺の御符水井である。

連載 2  奥津湊と妙覚寺

 奥津湊は海上の通航輸送に利用され、軍用や商工に大きな役割を果たしてきたことは歴史上明らかである。
 
 とくに江戸時代は仙台藩の廻船所や陣屋まであった重要な湊として発展し、東海岸唯一の湊街として殷盛を極めた。

 安政2年4月異国船が入港して薪水の積込みをしたことが、当地渡辺喜六氏所蔵の旧記文書にある。
 
 湊は西南に弁天岬(大保鼻)があり、椎島、虎根の岩礁がある。
 東方に天道岬があり、東南に面して港内面積七万坪、深さ干潮八尋内外、満潮時四尺前後、海底暗礁がなく台風の最中でも避難入港が出来、弁天山近くの深海に停泊すれば安全であった。

 江戸時代から明治維新にかけて仙台米を送る中間寄港地であり、仙台、津軽、南部等の諸藩の外海江戸廻し廻船輸送に利用された。そして妙覚寺に津料を納めていたのである。

 妙覚寺は御朱印二十五石、門前百姓十九軒、門下二十六ヶ寺があった。
 この興津浦は妙覚寺持ちに付、大船が船掛りする時に一艘に付金一朱と御供養米二升、五下は一艘に付二百匁(五下とは五百石以下を言う)

 当時、代官支配地であった奥津が船着場である弁天山一帯は妙覚寺の所有であったので入港の船舶はすべて妙覚寺に関税を納めていた。
連載 1  奥津

 文献を研究しても大昔のことははっきりしないが、興津は古代に部落を形成していたことは明らかである。
 夷隅郡より以前は長狭郡置津として存在していた。

 中世以降、置津は近隣唯一の良港であり、陸路では上野郷に通じ、相互で往来し、水陸交通の便を有することで自然物資の集散地となり繁栄したことであろう。

 地元の多くは漁業従事者で、農業従事者は少なく穀菜類の多くは上野郷に仰ぎ、農山漁介の相互市場であったと思われる。

 勿論、漁師街として城下街として往昔より枢要の地点で重要なる所であった。

 和田義盛支配以来佐久間兵庫亮重吉、重郎左衛門重貞親子の代に至るまで房総唯一の要害地点と目され、各城主の間で注視の標的であった。

 更に元亀天文の頃よりこの地の争奪は激しいものであった。

 里見氏は奥津城を修めて、厳然と安房を雄視していたこと見ても城下町としての繁栄は想像される。

 徳川幕府を江戸に開き参勤交代の制を設けるや、当奥津は江戸より海路仙台に通ずる交通の衝に当たれるをもって東北諸州の船舶の多くが停泊した。

興津物語2部