連載7    官地払下げ

 昭和41年に海岸保全区域設定公聴会が開催されたおり、私は私見を記述した文章を関係要路に贈った。

 即ち海岸保全区域設定後の官地の処理についての意見。

 海岸道路開設の構想の意見書であった、防災護岸の肩揚工事と同時に一部道路が造られつつある形は私の主張した通りでありまして、私の構想とぴったり合った大事業がになったことは天の援けとしか思われません。

 誰でも公益のため、自分の発案で無から有を実現させた時の感激と誇りは心の中で持たれるものと思う。

 私も全く同じようにこの大事業の完成を見るに及んで、官財の皆さま方のご理解ある処理とご指導、ならびに地主側の信頼の賜と深く感謝すると同時に、此の誇りと感激を私の小さい胸いっぱいに覚えます。
連載6    官地払下げ

 官地払い下げの噂が立ちましたところ、区の役員の中から、当区には住居を建てようとしても宅地がないので建てられない人がかなりいるので、官地は市や区で一括払い下げをして、これらの人に分譲してやってもらいたいと言う申し入れでした。

 私はそれは困った問題だ、関係地主が数十年来築いた土手造りで出来た官地とは言え、決して悪意からの無断占拠ではなかった。
 自然に占拠の形となったと言うものの、占有権も法的にあるのかどうかも判らない。それだけに他人に払い下げられたのでは鳶に油あげをさらわれた諺のようになって、必ずや大騒動が起きる。

 私は断固として反対しました。

 市長の意向は一括払い下げのように伝えられておりましたが、関係地主の強い反対意志に、しいて一括払い下げを主張いたしませんで、官財方面の意向次第と言う様子でした。

 私は官財係官のある方にこの事情を説明し一括払い下げか、個々の関係地主へ払い下げの意向かを尋ねたところ、関係地主へ個々に払い下げる方針と言うことを伺ってほっとしました。

 この理解ある処置で、万事が平穏無事に解決を見る事ができましたのです。
連載5    官地払下げ

 しかし、その通りに路線の変更をすれば、民地や民家の犠牲が多く、将来の海岸観光道路造りすら、出来るはずがない点を強調して、やっと納得してもらい、現在の路線に落ち着いたのでした。

 しかし、この路線でも水産加工工場の一部の取り除きや、民家の一部、あるいは移転費の捻出等、ずいぶん苦労しましたが、どうにか処理ができまして、工事進行上には「スムーズ」に施工が出来、湊川の川岸まで出来たのでした。

 その年の台風高潮で臨港道路とこの間が大被害を蒙り、その状況を台風直後、寺尾直司と共に写真に撮り、森先生まで持参して陳情したのでした。

 同行者、寺崎真一郎、岩瀬由造、寺尾直司諸氏、幸いに森先生は現地を視察下さいました。

 その節、せっかく出来た防災護岸が低いため、高浪は乗り越えて民家に被害があった現状をご覧になられ、肩揚工事の必要を認めて下さいました。


 即ち、臨港道路までの延長工事と肩揚げ工事を認めて戴き、やがてそれが実現したのが現在の護岸の姿です。

 次に湧いたのが官地払い下げの問題でした。

連載4    官地払下げ

 各地主は協賛してくれましたので、防災護岸築堤の運動を展開し、幸い森清代議士の認める処となり現地視察、柴田知事の現地視察等要人の現地視察があり、短日の間に第一期工事の弐千九百四拾万円の予算付けが内報された時は、涙の出るほど嬉しかった。

 森大明神と腹の中で手を合わせ、感謝でいっぱいでした。

 実は陳情はしたものの、万一地元負担があった場合はどうしようと、心配で夜もおちおち寝就かれないないほどの苦慮でしたが、地元負担なしに、全額国庫負担である旨を聞いて心からほっとしたのでした。

 間もなく起工したのですが、防災護岸路線が海岸寄りに下り、砂浜が狭くなると言う苦情が地元区の役員から出てきました。

 海水浴場が無くなり、網乾し場が無くなると大騒ぎが巻き起こって参りました。


 災害地主は自分の宅地を守るのに国の費用でやって貰うなんて虫がよすぎる、自分の宅地は自分の力でやったらよいではないか、どうしてもやるなら、民地と官地の境界線まで上げてやれと言う、血も涙も無い暴言すら放たれたものです。

 池田首相の言った、「貧乏人は米飯が食えなければ、麦米を食え」に等しい非常なものに感じました。
連載3    官地払下げ

 アイオン台風、キティ台風に続いて昭和三十三年九月十八日の台風二十一号の被害は特に大きかった。
 
 地先は大幅に削り去られ、陸上の住み家は小屋組と共に屋根を吹き飛ばされた家もあり、屋根瓦を全部吹き飛ばされた惨状は目も当てられないほどでした。

 私もその被害者の筆頭で、仮復旧費が当時の金で五十万円近く要した事でも想像できると思います。
 
 立正佼成会の小湊道場のグループから見舞金を贈られたほどでした。

 ところが当時の市長はどうした事情か、見舞いの言葉すらありませんでした。
 勝浦で一番大きな集落の興津。
 市の下部組織の地域代表の私に公式なお見舞いの言葉さえ無かったのでした。

 高額納税固定資産税の対象建物が此の大被害を蒙ったにもかかわらず、何らのお見舞いや減税処置も無かった非情さに、私は心密かに憤激を覚えたものです。

 此の憤激が私を立たしめたのです。
 
 私は自分の災害復旧をしばらく放って置いて、各沿岸地主を個別訪問し、説明し、共同連署の陳情書の捺印を求め廻りました。
連載2    官地払下げ

 江戸時代には仙台藩や、その他の藩の江戸廻し輸送船の中継基地として利用され、仙台藩の陣屋や米倉まで存在し、湊街として、また色街として長い年月、繁栄を続けて来た街であった。

 湊は長年の台風、地震、風潮で浸食され、殊に元禄十六年十一月二十三日の津波は興津地域を全部怒濤の中に巻き込んだ。
 
 元禄の大津波で避難港の湾口は削り去られ、
東南(いさな)(巽)に大きく開き、その後の台風の都度、怒濤は湾内に渦巻き、陸地を侵害するため、民地の地先を削り去り、時には物置小屋、網納屋を飲み去ると言う、被害が出てくるようになった。

 私が子ども心に覚えている台風の恐怖は、港内深く碇舶していた帆船、当時の千石船と言われるような輸送船が逆巻し、怒濤に乗込船員やお茶女を消えさせた惨状である。

 それから五十年前後の今日まで毎年大なり小なりの台風被害は決して小さいものではなかった。
 地先を削り取られては復旧工事に木柵を植え込み「しがらみ」をなし、或は土袋を造り積む土手(堤防)造りが先祖から引き続いて繰り返されてきた。

 全く以て、当海岸住民の慣行とまでになってしまったものです。

 知らず知らず海岸砂地に突き出しての土手造りが官地無断占拠の「かたち」であった。

鈴木進さんの随筆集から抜粋引用しています。
連載1    官地払下げ

 昭和四十四年の二月、官地払下げの土地登記、諸手続きを完了する段階になった喜びを各地主と共に祝す。
 
 昭和三十三年九月十八日の台風二十一号の暴威に見舞われた機会を以って防災護岸築堤の陳情運動を起し、それが基因となって官地の払下げとなり、感無量と云える気持ちである。

 文献によると、我が興津はその昔、湊街として、また城下町として繁栄した。
 
 千葉県の太平洋沿岸にあり、外房随一の避難港として利用されていた。
 当時、弁天山の大保鼻岬は椎島の先の虎の根まで山に囲まれた俗に云う「きんちゃく湊」であった。

 天道山の裏磯は、旧守谷道路で、「仙筒」と呼ばれた隧道があったほど、ふところの深い湊であった。

 物資(商工)の運輸や軍船を隠して海陸の備えに利用していた。
 要害堅固の興津城として安房や上総諸国の羨望の地でもあった。
 和田義盛以来三浦一族の領する地として佐久間重貞公の城下町として一段と繁栄した。

 重貞公が日蓮上人に帰伏し居館を献じ、妙覚寺と称するに至り、この湊付近一帯を、妙覚寺の領域として入港する船舶に関税を徴収した異例の「ケース」もあった。

興津物語3部