記録 興津共有山林について 7

仄聞するに立木無価値説が流れておるが、建材として植林した杉、桧、その他の用材の価格が暴騰している現在の状況や、環境保全の必要性、国や県を挙げての野鳥の保護等を考えると無価値説は土建業者の口実に乗ぜられる言説とさえ考える。

 植林者側の同意なくして勝手に売却できる筈はありませんので、あくまで妥協和解に努められたし。

 然らば売却急ぐべからず。

 冷却期間を置くことも必要かも判りません。

 私があえて具申いたす存意を充分皆さまにご披露下されてご了解のほどお願いいたします。

 もし必要とあれば証言のため、説明に参会する用意もあります。 またこの主旨を印刷し広く配布しても良いと責任をもって具申する次第です。

              昭和47年10月28日 鈴木 進

 正直者馬鹿を見る世の中にならない様に、深甚の配慮ありたいものです。
記録 興津共有山林について 6

 山林所有権の所在は分割登記関係公文書と前記誤謬訂正書類、及び証言等の資料を検討下されば、歴然と判明いたします。
 区側としてもよく認識し、植林者側に所有権の存在を確認し、和解対策をお考え願います。

 私見を申し添えますと

1. 前記払い下げ当時の先覚者の意志を尊重し、植林者側は大 
  幅に譲歩し、将来の対立解消の和解を希求する。
2. 区側(権利放棄した区民代表役員)は前記事情を充分了承確
  認の上、互譲和解に勤められたし。
3. 観光開発の条件付で売却すべきであって、興津地元の将来発
  展寄与される目的の達成を至上条件とすること。

右主旨にて和解妥協すべきである。

 区側は大金が入手したら神社境内の払い下げ、神社改築等に使用すべきと考える。
 大金保管は将来不祥事事件誘発の原因ともなりかねない。

 「大金をいだいて不善をなす」 深甚のご配慮を期待する。

記録 興津共有山林について 5

 1.払い下げ当時の先覚者の主旨を尊重した
 2.分割登記に要する諸費用と固定資産税の負担
 3.各組に分割登記した暁には、更に組内植林者個々で分割の 
  恐れがあった
 4.植林者仲間各個々の権利は、債権債務の対象物件になるお 
  それさえあった
 5.将来観光開発等の資源として唯一の好条件の場所なるがゆ 
  えに、細分割され個々の所有となったのでは、支障を招く疑念
  があった。

 私は区長就任以来、興津区観光開発私案として、この山林と弁天山を結ぶ構想をもって関係各方面に働きかけておった。
 これらを考慮して保留した次第です。

 従って、土地調査費用の捻出に困りました。

 区の共有林ではない山林のため区費より支出出来ない。

 植林者側に分割登記を実行保留したので、負担させられない。

 やむなくその事情を説明して、調査費の棚上げを懇請し、立木売却の時に必ず支払う約束でご了承をを得た次第です。


 従って、近い将来、立木や土地を売却する時は、吉野高嗣氏に土地調査費の支払い義務があります事をご了承いただきたい。

               
記録 興津共有山林について 1
 
 興津共有山林三十町七反三畝二十九歩について、区側と植林者側との主張が対立の噂を耳にしまして、心密かに苦々しく感ずるものです。
 このまま将来まで対立が続く限り当区の発展向上は望めそうもありません。誠に憂慮にたえません。

 前回貴台に私見書を差しあげ、御参考に供しましたが、現段階の深刻な対立様相を耳にして人間の欲望の恐ろしさがまざまざと感じられます。当時の真実の事情を重ねて具申いたし区側と植林者側との対立を解き、和解を求めるものです。

 昭和四十年、区長退任に当たり、挨拶として区誌を関係者に贈りました。その区誌の九ページに記録してある通り、大正十三、四年ころ、国有林野の払い下げの噂が流れておりました。
 一般区民の多くは無関心でありましたが、有志者の一部数人は個人払い下げを密かに運動をいたし、許可を得た者もあったと仄聞しております。

 栗原勝蔵区長時代、西川真一、関川市平、井上久幸の地元選出町会議員を中心に区側より鈴木新助、室山丹三郎、酒井倉吉、鶴岡太七、藤枝富造、その他の有志と合同協議の上、払い下げ方針を決定しました。

 実行委員として栗原勝蔵区長、西川貫一、関川市平、井上久幸、鈴木新助、渡辺敬理の少数委員を以って払い下げ運動に着手いたしましたが、興津区は法的な行政区ではなかったので、やむなく興津町長安西直一のの名義を借り、払い下げの申請をし、成功して大正十五年七月二十四日に払い下げの許可となりました。
記録 興津共有山林について 3

興津港防波堤兼築港道路を安西町長在職中に起工し、その地元負担金として共有林の立木を尾崎利平氏に売却し充当した。
 
 当時の区長高橋吉造、区会計塩谷信雄、工事請負は地元職工組合代表寺尾新造、保証人石井盤次、尾崎利平は楠を伐採、蚊取り線香を主として製造する樟脳工場(現在の三上旅館)を設立した位です。

 伐採された区共有林は空山となったので、植林を区長の渡辺敬理、並びに西川真一、鈴木新助諸氏を中心とした区民に植林斡旋を勧めたが、区民の大多数は応せず、共有権利を放棄したので、已むなく昭和29年に植林希望者には分割登記をして、無償譲渡という約束を以って植林勧誘に勤めた結果、衆議の上、上野村名木の市川智真多氏を依頼して14組に分割測量をなし、標杭を境界に打ち込み、各組の持ち場を抽選で定めた。

 だいたい弐町歩余りで、2ヶ所または3ヶ所見当の分割持ち場(当時の測量図参照)に、希望者のみで植林いたしました。

 区民多数が共有山林の共有権利を放棄したものと認め、当時の山林会と区役員会の確約の上で処理されたものです。

 苗木代の負担や植林の費用、下草刈り等の諸負担はもちろん、数年間は育成造林のための草刈り、間伐、その他林道の修理に至るまで大きな労力負担を払った。
記録 興津共有山林について 4

 当時一般区民の中には嘲笑する者さえ見受けたほどでした。
 各組毎に植林仲間の人数に格差があり、多人数の組、少人数の組、個々の負担の格差は当然であります。

 又、当時せっかく分割された持場に植林せず、放置したまま今日に及んだものもあるや、仄聞する次第です。

 第三番組では、規約書を作り、署名捺印、各自に保管させました。

 苗木は主として建築用材を目標に、杉、松、桧等。

 昭和29年3月、渡辺区長は約束履行のため興津町長吉野貴当て、区側代表鈴木進、酒井倉吉、鶴岡太七、岡田信司、山林会代表西川貫一、鈴木新助、室山丹三郎、藤枝富造、区長渡辺敬理等の署名捺印、公有林野権利移転申請書を提出した。

 その直後、4ヶ町村が合併し勝浦町となった。

 初代勝浦町長富田好三は前期申請書に対し、詳細調査確認の上、昭和30年4月2日付、分割登記用関係書類を当時の区長鈴木進当てに送達された。

 依って土地調査士、御宿町須賀186吉野高嗣氏に依頼して、該山林の調査、誤謬訂正並びに分割登記に必要な書類が完備したのであったが、私は慎重熟慮の結果、次の理由で分割登記を保留いたしました。
鈴木進 随筆集(二)より
記録 興津共有山林について 2

 しかし払い下げ代金の捻出に苦しみ、鵜原理想郷開発者、後藤杉久先生に事情を訴え、別荘地として売却のあっせんを懇情した結果、東京の財閥(服部金太郎その他)に売却(現在の田辺の山一帯)いたし、払い下げ代金、運動費等を賄ったもので、興津町及び興津区民の負担はありませんでした。

 興津町には名義料として字谷口2099番地、21町4反23歩を無償提供いたしました。従って残り字上舟木、下舟木30町7反3畝29歩を興津共有財産として残されたものでした。

 町有山林については興津港修築費地元負担金に充当する条件でありました。(当時の町会議事録署名委員 鈴木進他)

 4町村が合併し勝浦町になった。初代町長富田好三氏が興津支所に来訪。議事録その他を調査の結果、町費の支出がなかったこと、並びに私の証言により前期の条件を了承され、特別財産区として鈴木進、栗原寿、野村実夫の三氏が管理委員に選任され管理いたしておりましたが、昭和31年3月31日付で管理委員を解き勝浦町町有に移管いたしたのです。

 勿論、町名義移管の節、私の強い要請により条例に興津港修築費地元負担金に充当すると言う条件の町条例の写しを取り付け同意したものでしたその後、該山林は売却処理された由、仄聞す。

興津物語4