仙台藩

 先鞭の誇りと、輸送量をもつ仙台藩は、いちはやく奥津天童山下に、仙台役所を置き、寄港船の取締り・連絡・避難等に当たらせた。

 また、廻米船を繋留するため、仙台藩では全長3メートル余、重量2トン近くもある仙台石を運び、これを弁天山磯ぎわに、繋船柱として建てた。

 お祭りの際、興津で神輿をかつぐ唄に

 ♪ 米はどっから来た 仙台からきたっぺ
    仙台、米の相場はいくらする

 と言うのがある。仙台藩の米の出来高や相場が、興津村内にも関心がもたれたのであろう。
 奥津港はまた、近海唯一の避難港で、潮待ち、薪水補給の地でもあった。
 今でも、千軒とか三味線堀などの地名が残っているが、夕闇せまれば、弦歌嬌声でにぎわったという。

 興津港は巾着港 欲しい巾着紐がない
 興津前来て風なぎたなら わたしが止めたと思わんせ
 興津弁天様あらがた様よ 朝の出船の足をとる

 一夕大いにさんざめいた舟子たちが、きぬぎぬの別れを惜しんだものであろう。
 ところで当時、船舶の寄港する弁天山下一帯は、妙覚寺の所有であった。
 そこでここに船掛りするには、銭金・御供米等を妙覚寺に納めた。

 なお、ここで弁天山に連なる椎島は、荒天の波浪を防ぎ、もとは椎の木が繁茂していたが、元禄の津波の時流失したと言う。

 
東廻り海路の成立

 「奥津千軒」というたとえがある。
 これは動力船が開発される以前、太平洋を行き交う大型帆船の港として、興津が繁栄したことを表現している。

 東北地方から鹿島灘を超えて江戸に向かういわゆる東廻り航路は、近世に入り、年貢米運送の必要性から急速に発展した。

 すなわち、東北諸藩は、徳川幕府の貢租体制の確立に伴い、地元江戸に大量に米を運送しなければならなくなり、まずとられたのが「内川回し」の方法であった。

 これは、銚子から利根川に入り、関宿(野田市)から江戸川に入る方法が多くとられた。

 黒潮は房総沖で加速し、特に難所である勝浦沖は高速になり、これを避けるためであった。

 しかし、寛文11年(1670)以降、川村瑞賢により、房総沖を直行するいわゆる東廻り海路が開発され、以後はこの方法が取られるようになった。
 その際、風を待つ避難港として、銚子・興津・小湊が設定されたという。

 興津港には、近世に使用された1本の繋船用の石柱が保存されている。
 これは、宮城県石巻近在で産出する粘板岩、いわゆる仙台石で作成されたもので、仙台藩船によって運送され使用されたものと考えられる。

 こうした繋船柱はかつては10数本も並んでいて、妙覚寺に対して一艘につき金一朱と御供米2升、500石以下は200文を納めたとも伝えられる。
 
勝浦市史 通史編 参考
夷隅風土記 参考

興津と水運