剛毅の使者 タケミカヅチ

 
タケミカヅチアメノトリフネは出雲の国の稲狭(いなさ)の浜に降り立つと、波に剣の柄を立て、切っ先の上にあぐらをかき、オホクニヌシに国を譲るよう迫ります。

 
すでに隠居の身だったオホクニヌシは、子のヤヘコトシロヌシに聞いてくれと濁します。

 そこでアメノトリフネがひとっ飛び。連れてこられたヤヘコトシロヌシは国譲りを宣言するや、たちまち隠れてしまいました。
 
 そこへもうひとりの息子、
タケミナカタがやってきて力比べを申し出ます。

 しかし、タケミカヅチの力は圧倒的でした。

 タケミカヅチはタケミナカタの手を握りつぶして体を投げ飛ばし、逃げ出したタケミナカタを諏訪の海に追い詰めてしまいます。

 タケミナカタは許しを乞い、この地を出ないことと、国を差し出す約束をするのでした。

 
 オオクニヌシの物語

 
出雲に住むスサノヲの6代目の子孫オホアナムヂは稲羽のヤガミヒメに求婚に赴く途中、砂浜で素兎(しろうさぎ)を助けました。

 これによりオホアナヂジはヤガミヒメに認められるのですが、兄たちの嫉妬を買い、命を狙われてしまいます。

 そこでオホアナムヂは、根の堅州国(ねのかたすのくに)逃げ、
スセリビメと結ばれます。
 
 スセリビメの父はスサノヲですが、スサノヲの試練を潜り抜けることに成功したオホアナムヂは、スサノヲから
オホクニヌシの名を与えられます。

 そして兄たちを打倒し国作りを始めました。
 オホクニヌシの国が栄え始めると、
アマテラスは地上世界は自らの子が治めるべき場所であると言い始めました。

 アマテラスは地上を手に入れるため使者を派遣するが失敗に終わります。
 
 そこで度重なる国譲りの失敗の後に派遣されたのが
タケミカヅチと天を飛ぶ船の神・アメノトリフネです。

 さあ、いよいよタケミカヅチの登場となりました。



 
 イザナキからスサノヲそしてオホアナムヂ(大国主神)へ

 
イザナキからアマテラス(天照大御神)とツクヨミスサノオ(須佐之男命)の三柱が生まれ、アマテラスに高天原を、ツクヨミには夜を、スサノヲには海を治めるように命じました。

 ここからアマテラスとスサノヲの新たな話が始まります。
 弟のスサノヲの乱暴を恐れてアマテラスが天岩屋(
アマノイワヤ)に隠れて世界が闇に応われた話は有名です。
 宮崎県高千穂には天岩戸を祀る神社があります。

 高天原を混乱に陥れたスサノヲは追放され、やがて出雲国の肥河の畔(現・斐伊川(ひいかわ))にやってきます。
 老夫婦が娘の
クシナダヒメをはさんで泣いています。スサノヲが訳を尋ねると、老夫婦は8つの頭と尾を持つ大蛇・ヤマタノヲロチが娘を食べにくる時期が近づいたと答えました。
 ここからスサノヲがヲロチをやっつける話もご存知の方が多いと思います。
 その結果、娘のクシナダヒメを貰い受け
出雲の国の須賀に宮を建てて住み、子どもをもうけました。
 

 天の岩戸とヤマタノヲロチから主役の
タケミカズチ登場までもう少し後になります。

 こののち、スサノヲから6代目の孫
オホアナムヂが次の物語の主役となります。
 オホアナムジとはあの稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)で有名な
オオクニヌシ(大国主神)です。
 
 
鹿島神社の祭神 武甕槌命(タケミカヅチ)について
 
 雷神、かつ剣の神とされ、相撲の元祖とされる神でもあると言う。

 「古事記」では建御雷之男神・建御雷神
 「日本書紀」では武甕槌・武甕雷男神などと表記される。
 単に建雷命と書かれることもある。

 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(カシマノカミ)とも呼ばれる。

           ここまでWikipedia参考


タケミカズチの誕生(古事記より)
 
 混沌とした世界にイザナキイザナミの神が生まれました。
 高天原の神々はイザナキとイザナミに「国を固めよ」命じ二神は地上世界に降り、協力して日本列島を生みました。
 
 国を生み終えた二神はまず七柱の住居に関わる神々を生み、次に海、河、など水に関わる三柱の神を生み、続いて、風・木・山・野の四柱の神を生み、最後に船の神・食べ物の神・火の神など生産に関わる三柱の神を生みました。
 
 生れた神々も自分の分野の神を生んで二神を助けています。
 山と野の神は、山頂・霧・渓谷・迷い路の男女八神を生んでいます。
 
 イザナミは火の神
カグツチを生んだ時、陰部に大やけどを負ってしまい死んでしまいます。
 嘆き悲しんだイザナキが流した涙から、泉の女神
ナキサハメが生まれました。
 

 イザナミの亡骸を比婆山に葬った後も、イザナキの悲しみは収まりません。
 なんとイザナキは十拳剣(トツカノツルギ)でカグツチの首を刎ねてしまったのです。
 
 殺害されたカグツチの血潮は周りの岩に飛び散りました。
 しかし、剣の力を受けたその血から
タケミカヅチなど八柱の神が生まれました。

(
火の神カグツチの話は日本書紀の正伝には登場せず、別伝で扱われている
第7節 村社
清海村誌の第12章に興津地域の神社に関して述べられています。

第1節 総説
第2節 祭礼と祈祷
第3節 氏神祭
第4節 神社の管理
第5節 神社の維持
第6節 社格

と続いて記載があります。

しかし、文章や漢字が難解で解読に時間がかかりますので、まずは第7節の「村社」の項より解読していきたいと思います。
清海村誌 第12章社寺誌より整理して掲載します。
清海村誌は大正2年以降に作られています。
鹿島神社の祭神以降の青文字の文責は岩瀬にあります。H25.11.23始まり  
  参考文献は図解 古事記・日本書紀 普及版 西東社 他
鹿島神社(清海村誌より)

 鹿嶋神社は興津土井口の広栄山妙覚寺境内の東北隅の高丘に鎮座する興津区鎮守の神様で、氏子340戸を有している。 
 
 祭神は天祖天照大神の命を奉じて、出雲民族の討平に偉勲を立てた
建御雷神建甕槌神 タケミカヅチノミコト)にして、経津主命・天児屋根命を配祀す。

 社傳に曰く、人皇第45代聖武天皇の御宇天平17乙酉の年、下総の鹿嶋より歌聖山部赤人勧請と申し伝えられている。

 即ち今を去ること実に千百七十年以前の創立にして、本村神社中、最も古い歴史を有するものである。

 社殿は元、現在の妙覚寺庫裡のそばにあった。
、寛政年間の妙覚寺火災の際、不幸にも類焼の災いにあい、後文化年間に至り、再建と共に今の地に建立遷座せられる。これ現在の社殿にして、本殿間口二間五尺奥行三間と拝殿間口六間奥行三間と分れており、何れも木造茅葺となっている。
 
 社殿はそれほど大きくないが壮麗で境内297坪の地積を有し、広からずと言えども老松鬱蒼として、明治の初年に村社となった、

 昔から航海者の水難救済の守護神として参拝者がすこぶる多く、例祭は毎年旧暦9月6日に執行され、村長は幣帛(へいはく)共進使として神職と共に祝詞奏上の祭式を挙げた後、神輿の渡御となる。

 30有余名の●(旧に廾)夫烏帽子白張の盛装にして厳粛にこれを行い氏子の老若男女がその前後に従う。

 妙覚寺の旧記によれば、本社は元は禅奥寺の管理に属していたが、天正年間に妙覚寺第16世日巌聖人の時、受法し妙覚寺の管理に移る。
 禰宜は久我治郎兵衛なり。
 

興津と宗教(神社)