延宝の津波のところを簡単に理解してみると

 延宝5年9月3日から4日にかけての津波。
 
 大洪水で山も崩れ、田畑も壊れ、川に近くの人々が犠牲になった。
 
 9月20日にも地震があり、10月9日の津波でも多くの犠牲があった。

 9日の夜は全く雲がなく、風もないために木も揺れておらず、波も立っていなかった。

 その日から、2週間くらい地震が頻発し、22日から23日位経過した時に大雨が降った。

 25日目に1日で14から15回の地震があった。

 その後は5日に一度、3日に一度ずつ昼の正午までに地震があった。

 おおよそこんな意味だと思います。

 別の史料では、新官で亡くなった方もいたようです。
 
 この延宝の津波はそれほど大きな揺れが無かったとも言われています。

 興津に関して言えば、相模トラフが震源で1000年先の可能性と言われる元禄津波より周期もはっきりしない、房総沖が震源と言われる延宝の地震を意識した対応が望まれると思います。

 機会がありましたら大聖寺の記録も確認してみたら良いと思います。

 要注意 延宝の津波とご理解下さい。

歴史地震 第22号(2007)211頁
        「講演要旨」関東地方沿岸の「謎の津波」
      ー慶長(1605)と延宝(1677)の房総沖津波の新史料

       伊東 純一(株式会社ANET),都司 嘉宣(東京大学地震研究所)

 近世初期の津波については同時代史料が乏しく未解明の点が多いが、関東地方では慶長九年十二月十六日(1605年2月3日)に襲来したと考えられる「慶長房総津波」と、延宝五年十月九日(1677年11月4日)に襲来した「延宝(磐城・房総)津波」が、殊に重要である。
 
筆者らは2004年の歴史地震研究会で「慶長房総津波」について検討し、新たに発見した千葉県鴨川市天面(あまつら)の西徳寺の慶長房総津波による被災について書かれた縁起を紹介した。

 発表後、身延山大学仏教学部教授の寺尾英智先生から、千葉県勝浦市興津の日蓮宗妙覚寺が所蔵する『上総国興津村広栄山妙覚寺継図写』という記録に慶長の津波のことが記されているとのご教示いただいた。記事は次のようなものである。

「一、慶長九甲辰十二月十六日、戌ノ時大地震、即時ニ津波入、諸浜ノ人馬鶏狗ニ至マテ海上ニ引出ル、船魚家皆山谷ヘ打上ル、前代未聞故、如ク此為後代物語記者也、」
 
 この文章が書かれているのは、この史料の後半、『日保門流本末建立目録(録)覚記之事』という、祖師日蓮上人の文永元年(1264年)の鎌倉説法から元禄2年(1689年)に至る記録の部分である。
 
 日付・時刻の明確な明確な記述や、格別の誇張を含まない記述から、この記事が軍記ものや後世の史書からの引き写しでないことは明らかで、妙覚寺やその末寺に伝えられていた文書・記録類に基づいて書かれた可能性が高い。

 興津地域は津波当時大多喜藩領であったが、『房総治乱記』の津波被災村落のリストには入っていない。この史料が寺院内部に伝える意図で記されたものであることを考えると、近隣で大きな被害を出したものの妙覚寺自体には直接の大きな被害はなかったと解釈できるのではないだろうか。
 とすれば、リストの記述を裏付けるものと言うことができるだろう。

 この記録の末尾には、延宝五年(1677年)と延宝八年(1680年)の自然災害を列記した書き込みがある。

「延宝五丁巳年九月三日丁丑巳ノ刻ヨリ四日戊寅ノ日未申刻迄、大洪水シテ山モクズレ田畑多ク損ス、川辺ノ者トモ大情流レ死ス、同九月廿日ノ頃ヨリ日夜五七度宛ニ地震シ、乍去大分ノ非地震ニ中小ノ分也、同十月九日入専ノ二日目ニテ癸丑ノ日ナリ、或ハ諸浜津波入人情死ス、其夜ハ天ニ無雲一点モ、風木ノ葉ヲ不動、海ニ波不立、其後十四・五日ノ間ハ地震スル、又廿二・三日ニ一度ツヽ牛ノ正月中比マテ地震ス、」 (以下は虹や風水害の記事)

 この書き入れは、妙覚寺の末寺である大聖寺(勝浦市浜行川(はまなめがわ))横道の記録によるものであると記載されている。
 他の風水害の記事は同時代史料で確認でき、記事全体の信憑性も高い。

 寺尾英智,2005, 勝浦市妙覚寺所蔵「上総国興津村広栄山妙覚寺継図写」 身延論議 10号, 54-67,
 伊藤・都司・行谷,2005,歴史地震20,133-134
左の文章は、清海村誌第11章 名所旧跡誌に掲載されています。

 
興津の北に連なる山々の中で、特に人目をひく愛宕山がある。
 海抜66メートル余りで、緑が鬱蒼として翠したたるように老松が繁っている。
 その麓に20メートルに達する大銀杏の木が箒を立てたように空にむかってそびえている。
 この大木は上部の幹は枯れているが、下の方はまだ葉もついて数百年の古い歴史を物語っている。
 地元の伝説によると、元禄16年の大津波の波は木の頭を超え、海水が引くとその枝に海藻がかかっていた。


 と言ったような内容だと思います。
 大正初期に書かれたものです。

 名所旧跡誌ですから、現在の善奥寺に向かう階段の左側にあった大銀杏の木(現在は切られて存在していません)について説明を加えたものであると思います。

 
驚くべきは、元禄津波がひいた後に、海藻が幹にかかっていたと言うことです。
 これは、どんなに大きな津波であったか、想像を絶します。


 備えあれば憂いなしと言いますが、 ただ、相模トラフで起こる地震の再来周期は関東大震災(1923)が220年元禄地震(1703)が1500年と言う説に基けば、我々が生きている間に同様の地震がおきる可能性はほとんどないと思われます。

 ただ延宝5年に起きた津波は興津にも被害を及ぼし、現在千葉県や勝浦市のハザードマップでは元禄地震と共に基準となっています。
 
 その周期も明らかではなく、今後注意していかなければならない地震・津波であると思います。

 その延宝(1677)地震と慶長(1605)地震についての資料をインターネットで見つけましたので掲載します。

 尚、掲載に関し、文章を書かれた先生の皆さんにお断りしていませんが、地元の人間が地元の人に伝えるために掲載するものであります。ご容赦下さい。

 
 

 
名木(めいぼく)
           (清海村誌第十一章原文)

 奥津湾ノ北方ニ連直セル峰巒中、特ニ人目ヲ惹クモノ之レヲ愛宕山トス。
 海ヲ抜クコト正ニ二百二十尺余全山緑樹鬱蒼トシテ翠滴ルガ如ク山巓ノ老松蟠屈シテ頗ル趣アリ。
 山麓ニ一大老銀杏アリ、周圍丈余高六七丈ニ達スベキ突然箒ヲ立テタルガ如ク亭ニトシテ中空ニ聳ユヲ今ヤ上幹既ニ枯死セシリト雖モ下枝尚繁茂シ数百年ノ古キ歴史ヲ物語ルニ似タリ。
 里人ノ傳説ニ曰ク往ニシテ元禄ノ十六年我ガ房總ノ沿岸ハ大海嘯ノ襲ウ所トナリ當奥津市街ハ一面の○(にすいに倉)海ト変シ波濤ハ遂ニ樹頭ヲ没シ災後海藻ノ梢頭ニ懸シハアリト。
 依之観之銀杏樹ハ當時既ニ一大樹ヲナシ居タルモノニシテ其ノ幾百年ノ歳月ヲ歴タルカヲ知ラス。


 興津に大きな被害をもたらした津波は延宝5年(1677)の延宝津波と元禄地震(1703)による津波が記録されています。勝浦市の防災ブックも、これら二つの津波を基準に被害を想定しています。
 元禄津波に比べ延宝津波はまだ情報が少ないようにも思います。
 ここも、少しずつ情報が増えていけば良いと思います。

興津と津波