上総佐久間氏
(佐久間氏については、
ゆうげの城
興津小学校校歌の2番は
♪ 北にそびゆる要害や ひじりのあとの松のかげ
遠き昔をしのびつつ 我らはつとめいそしまん ♪
小学校の頃 全く意味がわかりませんでした。
大人になって、「要害」がなまって「ゆうげ」になったと言う話しを聞きました が本当でしょうか。
房総風土記にはこう記されています。
奥津城は「ゆうげの城」とも言われた。
興津駅背後の、要害と呼ばれる山上が城址である。
正嘉2年(1258)佐久間兵庫介重吉、同兵庫頭重貞築城という。
天文3年(1534)真里谷武田朝信に占拠されたが、のち守兵を置いて大多喜に移った。
同13年8月、安房里見の武将正木時忠がこれを攻略、配下の岡本大学をして、守備せしめたといわれる。
天正8年(1581)7月、大多喜城主正木憲時が突如反里見の兵を挙げ、奥津城を根拠として安房に攻め入った。
葛崎城(鴨川市浜荻)、金山城(鴨川市打墨)を降し、意気大いに挙がったが、里見軍は義頼自ら陣頭に立って反撃。
憲時の野望はならず、敗れて奥津城に退いた。
しかし里見軍の追撃激しく、憲時もついに同年城を棄て大多喜に退去した。
とあります。
その後の憲時は悲運であったようです。
夷隅風土記 参考
ウィキぺディア 参考
