夏目漱石と興津

 明治22年に夏目漱石が房総にやってきた。
 保田から小湊までの道程は専門家により解明されているようであるが、その後銚子までの行程がわからないとされている(らしい)。

 それより少し前の明治15年に総州なる人物が、総房共立新聞に同じような行程で小湊から興津を通り守谷、松部、勝浦を歩いた紀行文がある。
 「小湊から興津まで総南の堺を分断する山脈にして二里許の大嶺にて行歩の困難甚だし」とある。

 実は小湊の日蓮寺から台宿・広畑を経由し、上野、総野、大多喜に通ずる、往時の主要道があるのは多くに方がわかっている。
 小湊から台宿・広畑への山道も現在まだ歩くことができる(らしい)。

 実は今年の春、私は広畑から興津に抜ける山道があることを聞き実際に歩いてみた。(細尾道と言う)
 90歳台の広畑在住の方によると、その山道で興津の学校に通ったと言い、興津在住の70歳台の方は戦時中その道で、薪を切りに行ったといい、当時は普通に使っていた山道であった(らしい)。

バブルのころ、その一角に観光開発業者による「勝浦タワー」なるものが建てられようとしていた(らしい)。

 現在はほとんどが勝浦市の市有財産となっている。

 広畑から歩きはじめ、右に浜行川の漁港が見え、左にミレーニア勝浦が見え、興津バイパスのミレーニア勝浦入口の細尾トンネル付近に到達すること40分くらいか。
 まさに二里許の大嶺であった。

 すると、明治15年に総州なる人物が小湊から興津に来るにあたり、この道を通ったと思うのが順当か。ならば明治22年に夏目漱石が小湊から銚子に行くまでの、まず最初の行程は、その山道を通って小湊から興津に辿りついたのではないかと考えるのも順当だと思われるが、いかがでしょうか?
 明治のころ小湊から興津に抜ける道が他に有ったのか、調べてみる必要があります。                        H2508 岩瀬洋男
                     


千葉日報 1996(平成8年)5月9日(木曜日) 8ページ

       房総の作家欄       中谷順子さんの文章より抜粋

 昭和八年の七月から八月にかけて、康成夫妻は夷隅郡興津町の「山岸屋」で夏休みを過ごしている。
 「川端康成とともに」によると、七月二十七日から八月二十九日までだそうである。犬も一緒だった。
 「夷隅郡興津町山岸屋」から康成は、昭和八年八月に横光利一に手紙を出している。
 その書簡に、「間食がやまぬので、胃腸は十分よくならないが」と書かれているところを見ると、康成は胃腸を悪くして静養に来ていたことがわかる。
 上野の康成宅には客が多く、酒を飲まない康成は来客のたびに菓子を食べて、胃腸を悪くしていたようである。
 同書簡と自宅留守番への書簡には、興津町への誘いの文面があり、親切にも両国発の時刻表が克明に記されている。
 「勝浦の次の次、鵜原の次、上総興津駅下車。(勝浦回り、外房線)」と横光宛書簡にあることから、「山岸屋」は外房線上総興津駅前と見て差し支えないだろう。
 また「山岸屋」の康成宛てに、佐藤碧子から一通、林房雄と武田麟太郎の連名にて一通、伊藤整から一通の書簡が全集の「補巻二」に載っている。





川端康成 (1899〜1972)

 昭和8年の7月27日から8月29日まで興津に滞在し、「上総興津抄」という文章を「文芸首都」同年10月号に寄せている。
 
 その中で彼は「興津は勝浦の次の次の駅、日蓮の誕生寺のある小湊の一つ手前の駅である。海水浴場としては、外房州第一等である」と言ってる。
 
 康成自身も海水浴場を行っており、その感想を次のように述べている。

 外海で泳ぐと、内海では泳げないと云う人があった。
 海をあまり知らぬ私は、外海の方がどんなに気持ちがいいのか、よくはわからないが、外海の太平洋である興津の海は塩が大変強いやうであった。水が冷たかった。
 海の水を飲むものだから、口のなかが塩からくて、はじめは二三日のうちは、ものの味がわからなかった。あはびの酢貝もさざえの方が美味であった。
 
 町を上げて避暑客を大切にすることが印象深かったらしく、何度かそのことに触れている。例えば次のような文がある。

 たとえば、興津に避暑中に病気をしたとする。そして医療費の持ち合せがないとする。さういう場合、私が町営の貸家貸間案内所を通じて町に来た客ならば、町で医者にかけてくれ、体のよくなるまで世話してくれるといふ話であった。町のお客として、大切にするのである。

 また、次のようににも言っている。

 停車場前には、興津ばかりでなく、あのあたりどこでも避暑客歓迎の門を立て、電飾などもほどこしてゐたが、避暑客を大切にして信用することは、思ひのほかであった。

 避暑客数約三千五百、町の人口の二倍強であったが、そのために物価を上げるということは、絶対になかった。
夏目漱石 (慶応3年(1867)2月江戸牛込(現新宿区喜久井町)生まれ)

 明治22年(1889)8月7日友人数名とともに房総一周の旅に上った。
 
 彼はこの旅の後、漢詩文集「木屑録」(ぼくせつろく)を著したが、残念ながら勝浦に関する誌文はもちろん、勝浦の地を通ったことについても一切触れていない。
 
 しかし彼が勝浦の地を通り過ぎたことは間違いないと考えられる。

 では、興津は通り過ぎたのだろうか?

 友人数名と房総に向かった漱石は海路保田に到着し、そこで海水浴や鋸山登山などで数日間を過ごした。
 
 紀行文である「木屑録」にはこの地を題材とした多くの漢詩文が収められている。ところが「木屑録」の叙述はこの地を出た後いきなり天津小湊の誕生寺にとんでおり、この間漱石がどのようなルートをたどったのか確証がない。
 現在のところ、この若き日の房総旅行の記憶に基づく「草枕」や「こころ」の叙述をも参照して、漱石らは保田から富浦、那古などを経て館山まで下り、そこから房総街道(現在の国道128号線)を通って鴨川に出、更に北に進んで誕生寺に入ったとする考え方が有力である。(斎藤均「夏目漱石の房総旅行」など)。

 問題はその後漱石らはどのようなルートをたどったのかということであるが、「木屑録」では誕生寺の次に出てくる地名は東金であり、ここで彼らは宿を取っている。この間の行程については記す所がない。参考になるのは前掲の「草枕」や「こころ」の一節である。
 
 前者には「昔し房州を館山から向うに突き抜けて、上総から銚子迄浜伝いに歩行いた事がある」とあり、後者にはその行路の様子について「暑い日に射られながら、苦しい思いをして上総の其所一里に騙されながら、うんうん歩きました、(中略)さうして暑くなると海に入って行かうと云って、何処でも構わず海へ漬りました」とある。
 
 上の叙述から一行は小湊から北へ向かい、勝浦を経て海岸伝いに銚子方面に向かったとするのがごく自然な受けとり方であろう。ただこのルートは「おせんころがし」などの難所を通らねばならず、漱石らがどのようにここを超えたのか全く記されてないのは残念である。

 明治15年7月9日付の「総房共立新聞」に、総州なる人物による「総南紀行」という記事が載せられている。
 それによると総州は28日(明治15年6月か)に小湊から興津に向かったが、この間は「総房の界を分断する山脈にして二里許の大嶺にて行歩の困難実に甚はだし」とある。更に翌日興津を発し勝浦に向かったが「此間一村より一村に行く毎に必ず一嶮阪あり守谷、松部、勝浦の各戸長諸氏を訪尋し十一時頃沢倉村に至」とある。
 
 漱石一行も恐らく同じように険路に苦しみながら興津をを通行したと考えられる。
勝浦市史 通史編 参考

興津と文人