川端康成さんの来興

昭和8年の7月から8月にかけてノーベル賞作家の川端康成さんが静養のため興津に来ています。

興津と文人」の項でふれさせていただいておりますのでご一読下さい。
昭和前期の躍進

 昭和2年4月に房総線の駅が開業した興津の躍進ぶりが注目される。鉄道開通翌年の同3年7月15日における同駅の乗降客数は内房の北条(2400)鴨川(1420)保田(1390)、及び外房の大原(1300)に次いで内房の浜金谷と並んで房総でも5位の1200人を数えており、勝浦駅の1100人をむしろしのぐに至っている。
 
 興津の海は遠浅で白砂青松、みお、引き水もほとんどないなど理想的な海水浴場であり、同じような条件で自然美にあふれる隣の鵜原海水浴場とともに、鉄道開通後一段と活況を呈したものであろう。

 かっての興津の旅館(浜屋・山口屋・晴海樓など)は旅の商人やセールスマン、房総の名勝をめぐる観光客などが中心であったというが、昭和6年6月23日付、東京日日新聞には、夏の避暑客対象として次の9旅館の名が見える。なお、( )内は部屋数である。
 山口屋(15) 晴海樓(15) 室山旅館(14) 竹屋旅館(4) 柳屋旅館(8) 興津館(20) 新屋旅館(7) 浜屋旅館(9) 鵜原館(12)

 当時の興津の土産物として「おきつ人形」のあったことが昭和4年9月19日付房総日日新聞の広告欄に出ている。この地の伝説、風俗、俗謡などを題材とした木彫の人形ということである。

 その後の興津海水浴場の推移を見ていくと、

 昭和5年は8月1日までの滞在客が2574人で県下6位、外房では大原の3888人に次いで2位であり、勝浦の2362人を相変わらずしのいでいる。そのほか鵜原にも775人が滞在している。

 昭和7年は7月20日までの滞在客数は744人で県下4位。外房では首位を占め、ここでも勝浦の522人をおさえている。

 昭和9年には勝浦の4167人に次いで県下8位、外房3位の3168人。

 昭和10年8月2日には3296人で県下7位、外房2位で、2207人の勝浦を上回る。

 昭和11年8月13日には県下8位、外房4位の4544人。このときは勝浦は6019人を数えたと言う。

 以上のように興津は鉄道開通後海水浴場として活況を呈し、県下上位、外房では1、2位を争う海水浴場と目されるに至ったのである。
勝浦市史 通史編 参考

興津の観光