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 第17章 兵事誌

    第1節 徴兵検査

 明治42年から大正2年までの検査人員や検査成績の一覧表の記載

    第2節 軍人

 陸軍と海軍の人数の表の記載

    第3節 在郷軍人

 明治40年1月1日に創立した清海村在郷軍人会についての説明記載

   第4節 日本赤十字社、愛国婦人会

 日本赤十字社社員、愛国婦人会会員の人数に関する表の記載

    第5節 日清戦争に関する諸項

 日清戦争従軍記章拝受者名簿等の記載

    第6節 北清事変に関する諸項

 北清事変に対する褒賞に関する記載

    第7節 日露戦争に関する諸項

 出征軍人の模様や戦病死者、負傷兵に関すること等の記載、合わせて氏名一覧表の記載あり
 戦病死者の葬儀等の詳細な記載あり

 
 第16章 警察誌

    第1節 維新前後に於ける警察状況

 維新前の封建時代に於ては領主の代官が警察を司り、維新前後には幕府の勘定奉行に隷属する八州取締と称する司法警察官ありて、時々巡視し、尚その手先に岡引なるものを駅場毎に配置し博徒中の勢力あるものを使役して犯罪者の捜査逮捕に当らしめたり。 と始まっている。
 
 明治14年には初めて巡査駐在所を清海村に設置せられ当時はこれを興津在勤所と称せり

 この他に、駐在所の歴史、位置、敷地、建物に関すること、明治18年以降の巡査氏名が記載されている。

 警察衛生及天変地異に関する事項として

・ 元禄16年12月30日の大津波
・ 明治19年の大沢区のコレラ
・ 明治23年1月24日大風による漁船の遭難
・ 明治25年6月7日濱行川区の磯根事件
・ 明治36年9月防風雨による船舶数艘の破壊
          と家屋の流出、道路の崩壊
・ 明治36年10月鵜原での殺人事件

  等の記載あり

      第2節 警察の現況
      第3節 警察事故

 文書取扱件数及口頭収受件数
 精神病者、救護、変死、自殺、火災、盗難、犯罪人員等の記載あり。

      第4節 消防附夜番

 消防についての概況説明があります。
 消防手は目下150名 救護班1名 担架卒4名
毎年春秋2季に大演習を行い時には実際、的の仮設をなして演習を成し、その技の優秀なるものには賞を与え以て技能を鍛錬する。

 消防員について
  
  清海村消防組頭
      消防組救護班
      消防員 の名簿記載がある

ここでは、興津の名簿を掲載する
先祖の名前が出ていれば幸いである。

 興津西 
 
火係
 高橋磯吉 栗原勝造 栗原初太郎 
 野村喜代松 前田兼治 栗原虎吉
 数馬定吉 鈴木留次郎
〇(口へんに即)筒係
 岡田源司 室山丹三郎 岡村信義
 吉野秀二 高梨萬二 藤枝慶蔵
 鈴木雄三郎 寺尾眞三 栗原萬三
水係
 野村直治 戸熊五郎 鈴木長次郎
 高梨留蔵 石川磐次 高梨源次郎
 長谷川平四郎 山口源次郎 須金政蔵

 興津東

火係
 岩堀直吉 渡辺五郎吉 岩堀宗七
 村田廣吉 長谷川新次郎 西川長五郎
 森善吉 岡村千代吉 朝岡源八郎
 今井亀吉 藤枝善治
○(口へんに即)筒係
 井上久幸 今井彦造 長谷川善太
 栗原政吉 渡辺銀蔵 渡辺市太郎
 高梨米蔵 吉野三千造 岩瀬経三
 斎藤房吉
水係
 平野傳治 永井清次郎 数馬友吉
 岡村政太郎 佐藤太吉 吉野登
 朝岡孫七 尾川善吉 鈴木新助
 斎藤米蔵

 この他消防に関する詳細な活動の記載あり




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 第15章 衛生誌

     第1節 衛星に関する一般思想
 
 現今本村の衛星に関する一般思想は未だ幼稚なるを免れずと雖も是を十数年以前に比較対照せば幾分進歩の傾向を認める事を得べし。 と文章は始まっている。

 伝染病大流行表中で、
   明治19年の大澤大虎疫(コレラ?)
       患者32死者18
   明治28年 全村大虎疫
       患者7死者2
 特に大澤大虎疫の際は一時は全部落全滅せずやと疑はしめ各町村有志者に向て慈善救済を仰ぎたるほどなりき と記されている。

 赤痢病においても累年幾多の患者を生じ殊に明治35年の濱行川大赤痢(患者19死者7)同44年度大澤大赤痢(患者34死者6)はその流行実に激烈なるものなりき

 明治28年には全村に亙りて天然痘流行し患者計20内死亡2を出し、又同30年にも多数の患者を発生せり

 腸チフスにいたりては、ほとんど累年発生したりしが、特に猛烈なりしは明治26年より明治43年までほとんど全村に亙りて累年発生し明治26年より同30年までは年中を通じて該患者絶えざる状況を呈し実に憂うべき極まりしなり

 ヂフテリヤ、発疹チフス等の伝染病も随時発生せしかとも、その大流行は見ざりき と記されている。

      第2節 医師産婆等累年比較表
      
 大正2年 医師3 産婆2 薬剤師0 鍼灸師3
       製薬者2 売薬請売業5
      医師1人に対する現住人口1904.33

      第3節 病院
 
 院名   清海病院
 位置   清海村興津848番地
 院長   田村伊平
 資格及履歴
       長崎縣人 東京私立医学校出身
       文部省医術開業試験及第す
 医員数  助手1 薬局1 看護婦1
 開業年月 大正2年7月7日
 規模    病室4 定員6名を容る
 主たる科 内科 外科 眼科
 患者数 1650名(大正元年7月より同2年7月
       まで満1ヶ年間)

 他に衛生行政沿革大要等の記載あり。

       第4節 衛生組合沿革
       第5節 死亡統計表
 
 病名別の死亡比較表があり、伝染病調として伝染病大流行年次表の中に、状況が生々しく描写されている。

 隔離病舎沿革及現況や火葬場興廃調査票がある。

     第6節 小学校児童トラホーム予防

 学校別の患者累年比較表が記載されています。
  
       第7節 通俗衛生講和

 衛生思想涵養のための衛生講話会または幻燈会の開催記録が記されている。 
  
 第14章 教育誌

     第1節 明治維新前の教育

 ここでは興津区における概要について整理してみます。

 学生頒布以前の興津区子弟の教育は
寺子屋としては禅奥寺と正法寺の2か所とし、
私塾としては佐久間権兵衛氏の経営に係る1ヵ所のみである。
 
 禅奥寺はおもに女子教育に当たり、正法寺と佐久間氏私塾は男女混合で児童数の最も多いのは佐久間氏の私塾である。
 
 総て弟子は教師に対して御師匠様なる敬語を用い、入学の当初は父兄を必ず伴い、天保銭で300位(今の3銭)を師の許に納める。
 
 学科は読書、算盤に重きを置き男子は今川、実語、庭訓、往来、三字経、大学、中庸、論語、孟子等を学び、女子は女今川、女庭訓、女大学、等を教科書として用いていた。

 手習いは入学するや間もなく行い、初歩には草書より習い上達するに従い楷書に及び現代の制度と全く反対で誠に奇とすべきである。

 珠算はやったりやらなかったりであるが、やっても、乗算九九位である。

 毎月25日は天神様の命日として課業を休すみ、正月は必ず書き初めを書いて神前に供える。
 正月25日はお供え崩しと唱え子弟は皆、師の許に呼ばれて雑煮の馳走に預る。

  他に七夕の行事と不行跡の児童に対する懲戒法等の説明が記されている。

    第2節 明治維新後の教育の概要

 当時の清海村の学校の沿革や学級、児童数の表や出席割合、教育費の決算等多数の資料が添付されている。
 
    第3節 社会教育

 各学校の文庫に関する件と明治44年11月27日に創立された濱行川青年会や明治43年7月に創設された鵜原区青年団に関する件、あるいは、清海尋常高等小学校同窓会の規約等が記載されている。
この清海村史は大正2年とそれ以前のデータに基づいているようです
明治22年4月1日から大正9年12月31日まで、興津は「清海村」の一部でありました。
清海村は大澤・濱行川・興津・守谷・鵜原で構成され、当初は「きよみむら」と呼ばれていた記述があります。
市役所の社会教育課に当時をまとめた資料がありましたので、その一部を現代の表記で要約掲載をおこないます。
しかし、文章も難しく、私の能力に限界がありますのでご了承ください。

興津と清海村誌 2