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興津と清海村誌3へ つづく
興津と清海村誌2へ つづく
明治22年4月1日から大正9年12月31日まで、興津は「清海村」の一部でありました。
清海村は大澤・濱行川・興津・守谷・鵜原で構成され、当初は「きよみむら」と呼ばれていた記述があります。
市役所の社会教育課に当時をまとめた資料がありましたので、その一部を現代の表記で要約掲載をおこないます。
しかし、文章も難しく、私の能力に限界がありますのでご了承ください。
 第13章 官衛公署

      第1節 村役場

1.戸長役場時代
 古き記録を見れば、明治5年11月副戸長を命じられたものがいるので、それ以前に
制度が始まっていたと思われる。

 明治17年9月に、鵜原村、守谷村、興津村の3箇村は合併の機運が高まり、関川儀一郎が統合村の戸長になった。
 続いて藤平東作、佐久間利右衛門、長田
 重穂と続いた。

 大正2年清海村事務報告によると、
  村立清海東尋常小学校増築工事及教員住宅新築工事の完成となっている。
 戸籍に関しては、前年末在籍人口6371人現住戸数952戸、等の表記あり。

 他に

2.役場庁の沿革
3.町村制施行以来の本村村長
4.               助役
5.               収入役
6.本村関係議会5箇年表
7.本村関係吏員5箇年表
8.本村関係役場事務成績5箇年表
9.本村条例規約改廃沿革
10.現行村条例の大要及諸規定
11.大正2年清海村事務報告

 の記載があります
                                                                
 第9章 運輸交通誌

     第1節 沿革

 
交通も甚だ不便で海岸の道路が唯一の交通路であった。
 このようなことから、元禄16年12月の大地震津波の時は交通がとだえてしまった。
 
 その後村民は、山間に道路を開いたが、 この里道は高山に昇るようで曲がりくねり、両側に千尋の谷があり、草木が茂り道を覆い、岩石がむき出しで、危険であった。しかし、明治19年県道が開かれ、里道が枢要里道に変更されてまったく一変した。

 興津は仙台江戸間の中枢港として運輸交通上の重要な位置にあった。
 明治維新前後に寄港していた仙台の商船は約300隻もあり、米千表を積み込み、九曜星の旗を立て威厳を保っていた。
 港内40隻の船舶が停泊していたことも珍しくなかった。
 
 明治
30年に東京湾汽船株式会社の通海丸と言う小蒸気船が港に出入りすることになり、現在では3艘の汽船が常に出入りしている。

 郵便電信局も設置され、大正2年には隣町の勝浦まで鉄道が延長され、陸に海に交通運輸上の便は、年と共に進歩している。

      
第2節 水運
 
    第1 河川
    第2 海洋
          表記
   1. 本港を起点として各地への浬数
   2. 興津港汽船乗客荷物累年比較
   3. 興津港出入船舶
                 の記載あり

      
第3節 鉄道

 勝浦駅まで房総線が延長されたことによって、漁獲物の運輸が非常に有利になった。
 また、小湊や清澄山に参拝する日蓮宗信徒もたくさん増え、加えて、避暑客も多くなった。
 
 附として
 「本村の主たる旅館に山口屋あり濱屋あり共に興津にありて2階建てなり
 居ながらにして海岸の眺望をほしいままにあるごとし得主人は客をあつかうに親切丁寧なれば一度この地に足を留めしものは又この地に足を運ばんと思はざるものなし」 と記されている。

      
第4節 県道
      第5節 枢要里道及里道


 興津から市原郡白鳥村石神線に関しての記述には
  
 本道はもと里道なりしが明治30年枢要里道に編入し、越て
明治34年工費総計金1万4282円9銭5厘、内4760円69銭8厘は縣補助
 9521円39銭7厘村負担、220人の寄付によりて改築工事を起し明治34年9月竣工を見るに至れり、その後数回の小修築をなし今日に至る
  上野村に至る延長 1里8町59間
      道幅 最廣3間 最狭1間半
      道中に1橋梁あり長3間 幅2間
      1隧道あり長8間5分 幅2間 高2間

 
とあります。

       第6節 船舶諸車
       第7節 運送業

 明治41年の興津港輸出入貨物品種別の表があります

 
輸出品に

米 数量5800石 金額58000円 仕出先東京

麦     900石    8100円      東京
食塩  86000斤    5580円     神奈川
等があり
 輸出品として

砂糖、石油、呉服類、鮪、鰹、乾鰮、鰹節等があり、東京と神奈川に向かっている

      
 第8節 通信 
   
     第1. 郵便
     第2. 電信

 附として
 電話は近い将来に新設の可能性を示しつつも、この時点では、「駐在所の電話を時に使用することを得るの便あるのみ」と記している。    
 第8章 経済誌

      第1節 金融

 村民の貧富に関し、中産以上が4割、中産が2割、中産以下が4割となっている。
 前章に示した通り水産業従事者が多数であるが、磯根漁業従事者はほとんど無資力にして労力供給によるにすぎないと記されている。

 郵便局はすでにあるが、生活費のための質屋が鵜原区3、守谷区2、興津区2、浜行川1の合計7店である。
 
 無尽講も30あり、興津区が16で1番多い。
 釈迦本寺講と言うものも存在し、当時の住職が地域の住民の生活に頭を悩ませ、大きくかかわっていたと思われる。

 生業上の資本金の融通には生魚屋「ヨーヤ」なるものが存在し、その数30に達するほどである。これは、採獲物を時価の1割減で仕切り、漁期の間に1割の利息を返済する。そのような仕組みと理解した。

 これらから、お金に不自由している人が多かったと推察できる。

      第2節 生産消費

 生産消費過不足表を見るに、米・麦・野菜・果物・林産物・衣類・各種営業用具類・醸造物・日用品等多くは他地域からの供給であり、地元で間にあったものは、家畜・漁獲物・水産製造物・肥料に過ぎないと記されている。

 これらは大正2年当時の推計であるが、
米は1人1年間1石(150kg)消費で計算され
野菜・果物の消費高は1戸1ヶ月1円20銭
漁獲物水産製造物の消費高は1戸1ヶ月2円30銭程度とみている。
 米の年間1人150kg消費の想定は現在では考えられない数字である。

 尚、清海村の「富力」について、こう記されている。
「本村の生産が水産業とこれに関係を有するものが大部分であり、富力も海洋を除いては
磯根を除き、ほとんど見るべきものは無し。
富力の偏りは生産の単調と共に経済的発展の将来に憂慮すべき事柄にして、生産的富力の増進と共に大いなる考究を要すべき問題である」 と指摘している。

 水産業や観光が衰退しつつある現在でも、100年前の指摘が多いに的を得たものと驚愕
する次第である。

       第3節 財政

 ここには、明治43年度から大正2年度までの決算と大正3年度の予算が対比して掲載されている。
 
 また税率表や税金の滞納人員数や額も記されている。
 
 国税集計累計表には
田税、宅地税、畑税、雑地税、営業税、所得税、売薬営業税、自家用醤油税という項目も見られる。

 國懸税納税種別 
 懸税の部(営業税に関するもの)として

 販売業164 製造業36 飲食店14
 宿屋業3 料理店2 理髪人8 のほか
 湯屋9 人力車7 酌婦29 鮑採漁15
 艀漁船315等がある。
 
  このほかに、
 財政各説として
  1.村財政の特徴
  2.村税徴収
  3.公債
  4.財政整理 等があり

 学校の校舎新築や伝染病の予防のための移動式隔離病舎の建設等が記されている。

 ちなみに、大正3年の給料は
 村長報酬 年300円
 助役月給 28円 収入役15円 
 書記15円50銭 正教員月俸20円
 専科教員11円

 将来の懸案事項として
 小学校舎、役場庁舎、道路、避病舎、等各事業がひとまず完成したが、実力を超える負担である。
 今後の財政計画にあたりその回復を第1に考え、役場吏員の増員や各小学校の学級増加等はまさにつつしむべきである。

             
この清海村史は大正2年とそれ以前のデータに基づいているようです。
 第7章 生業及び物産誌
     
      第1節 概説

 北からの山に迫られ、土地も痩せ、海風も強く農林、牧畜、蚕など見るに足るものはない。
 しかし、幸いに海岸は天然の漁場で黒潮の流域に属し無尽蔵にある。
 屈強な男は総てこれに従業し、漁業区域は福島県から西静岡県まで広汎に渡っている。
 商工業もこれと言ったものもなく、水産業が中心である。

      第2節 農業

 地勢や耕地地積及び漁業の現在(大正2年)と比べても幼稚の域を脱せず、食料品の大部分は他の地域に仰いでいるのが実情である。

明治36年12月5日  村農会 設立
事務所は興津848番地 清海村役場内
会員1045名
会長 平野秀太郎 副会長 吉野健治
評議員7名 等の表記がある

      第3節 商業

 地域の主たる生産業である漁業に関係する海産物販売業の外は、住民の需要供給を満たす程度である。
 
 海産物販売は総額約36万円余り。興津港及び松部港による水運と勝浦駅からの汽車便で大部分は東京市場に向かった。
 
 米穀の販売は海産物に次ぐものであったが、上野村からの供給が多く、他に優良米として安房地方から来ていた。
 
 中国南京からの輸入米も米価高騰や不漁のときに需要されていた。
 
 大正2年の物価は
 清酒1升 55銭 
 上等米 1円に付4升5合(6k750g)
 鶏卵1個 2銭5厘
 石油1升 25銭      等 一覧表あり
尚、職工賃金は
 大工や左官は75銭で徒弟60銭で賃銭の者は40銭とある
 (1円=100銭  1銭=10厘となる)

      第4節 工業

 当時はすでに守谷に沃土製造の総房水産株式会社があったが、他は小規模な家内工業が多かった。
 項目として
1.海産物製造に関する者
1.漁具製造に関する者 漁船や付属品等
1.食料品の加工製造に関する者 精米業者
1.木具類 桶職多し 生魚や塩干物の容器
1.石材 鵜原で採掘 
              等の詳細な表記あり

      第5節 水産業

 全村戸数952軒の内、漁業や製造業に関係がある人が、781戸(但し、労働雇人を除く)で
ほとんどが水産業の関係者と言っても過言ではない。
 
 網漁に関すること、それぞれの魚の釣り方、
製造や輸送法や漁期に関すること、漁獲高等多数の記述あり。

 アワビやとこぶしの採取、カジメ採取は老若男女を通じて利益を得ることができ、わが漁村の大きな稼ぎ場であるが、近年は濫獲の結果多少荒廃のきざしが有る。将来にむけて大いに考える必要がある。

 地区ごとの境界や漁業権についての争いもあったようで、多くのページをさいている。

      第6節 牧畜業
      第7節 林業
      第8節 養蚕業


と続きます。

興津と清海村誌 1