善栄寺 興津横須賀625番地 東光山善栄寺 日蓮宗 本寺妙覚寺

 法華経の題目妙法連華経を以って本尊とする。
 創立は
文明13年丑年(1481)後土御門天皇の後宇なり。

 当寺所蔵の旧記によると、当道場は本山妙覚寺第十一祖大補律師日真聖人の隠棲の霊地であり終の寺であった。

 実は本山妙覚寺大十四祖能登律師日義聖人の法弟日用上人の開基であったが、その功を師僧日真聖人に譲ったものであると、当山に今も安置してある日義聖人自筆の勧勤持佛の小祖師尊像に、善
寺日義文明3年(1471)と記されている。

 しかし、本山妙覚寺の旧記によると、日真聖人の御退蔵は文明13年ないし14年の間にある事実から推測すると、創設の年代は文明13年で、小祖師尊像に文明3年とあるのは13年の誤りではないだろうか。

 寺号は元は善叡寺と書いたようだが、「叡」と「栄」の国音が同じであるので、何時の時代からか、「栄」の字を使用するようになったと思われる。

 昔は文字の異同は多く、問題になるようなことはない。

 当山は寛政五発丑年の冬に火災があり、堂宇が全焼し、日義上人自筆の寺号本尊は烏有に帰す。現在の堂宇は享和年間の当山第30代日薩上人の代に信施を募って再建したもので、寺格は素紫跡であるが、代々紫金襴の法衣着用を許されている。

 境内557坪 境外所有地 田 1反2畝16歩 畑 1反7畝9歩
                 山林 1反9畝17歩あり 
 
釈迦本寺 興津 巌長山釈迦本寺 日蓮宗 本寺(興津妙覚寺)

 市外地域の一画にある釈迦本寺は、慶長7年(1602)10月妙覚寺日巌によって創建されたという(妙覚寺文書)。日蓮布教の道場として知られ、境内にある御符水井戸は、悪疫蔓延を封じるため、領主に乞われた日蓮が、石に経文を書き投じた井戸だという。
 
 戦前まで熱あるものなどが、この霊泉の利益を信じ、その水を頂戴していた。
禅奥寺 興津字横須賀629番地の1  金永山禅奥寺 臨済宗 
      本寺(大多喜町田町佛日山円照寺)


 東、北、西の三方を山に囲まれ、特に背中にそびえる愛宕山は風景のすばらしさで有名である。南一帯は萬項の稲田に向かって開かれており、市街を隔てて興津湾の白帆悠々たるを見ることができる。

 釈迦牟尼仏をもって本尊とす。

 元は興津北方の山間部にある、字経淵にあって、民家僅かに60有余人で畑の少ない漁村に過ぎず、その後現在地に移転したものである。

 古老の言を総合するに、興津の寺院の中で最も古いもので、唯一の古寺であった。

 創設は元正天皇の養老4庚申年5月(西暦720)である。

 臨済宗禅奥寺は、もと真言宗の古刹といわれるが、南北朝初期、入元僧大光禅師によって中興開山された霊場であると言われている。
 禅師は足利時代の人で、人皇95代花園天皇の延慶2巳酉年、元に渡り、天目山の中峯に謁し、狗子無佛性の悟りを参究し、遂にその印可を承け中峯遷化の後、塔を守る事3年で帰朝した高僧である。

 当山は実に師の帰朝後、最初に開創した禅閣である。

 おの前身は天台真言の何れかで、当山旧地不動明王の尊像を盗まれた云々と伝えられるも、妙覚寺の記録には真言宗を明記してある。

 明治35年壬寅年9月再び罹災して倒潰した。

 戦国末期、興津の地頭岡本大学の菩提寺との所伝もある。現在は無住・無檀家のため堂宇も閉ざされたままである。
 この寺に安置されていた一木造り、木造地蔵菩薩立像は南北朝の作で、現在勝浦市教育委員会に移され、保護されている。
妙覚寺 興津土井口 広栄山妙覚寺 日蓮宗

 広栄山妙覚寺は、江戸時代御朱印25石、末寺26ヵ寺を有し、無本寺と唱え、他の管理を受けなかった。
 身延山久遠寺に属したのは明治7年からである。
 
 文化12年(1815)失火、全山17宇を烏有に帰したと言うが、それよりはるか以前の「文明19年(1487)丁未九月日 大願主権律師」の銘記をもつ優作木造日蓮上人坐像がある。また、中老僧日法作と伝える「布引祖師像」もある。
 
 布を羽織った祖師の像で、かってこの地に悪疫流行、死者続出した。これを憂った佐久間城主は、日蓮に祈祷を乞うと、日蓮白布に経文を書き、船に乗って布を引きつつ祈祷し、たちまち疫病を平癒させたという口碑がある。

 仁王門は、三間一戸の楼門で、天保7年(1836)起工、同10年竣工をみたという記録を存している。おそらく伝統ある夷隅大工の健造にかかるものであろう。地方色に富んだ遺構として、勝浦市指定文化財である。(夷隅風土記より)


 【 興津物語2 】 参照
日蓮聖人 貞応元年(1222)〜弘安5年(1282)

夷隅風土記によると、

  「日蓮がこの地に来て布教したのは、妙覚寺寺伝によれば文永元年(1264)10月15日から24日までで、時の奥津城主佐久間兵庫頭重貞の招請によったものという。わずか10日間の説法であったが、庶民に与えた感銘ははかり知れず、城主またいよいよ信仰を深め、わが子長寿麿(日保)と末弟竹寿麿(日家)を上人の法弟とし、妙覚寺を開基した」とあります。

 弘長元年(1261)伊豆の伊東に流罪となり、2年後(1263)流罪を許され鎌倉へ戻ってきた。

 その翌年の文永元年(1264)8月、母親梅菊の見舞いのため故郷の安房の国に帰ってきた。 1ヶ月余り母親の看病を行い、

 10月14日に旧師道善房と12年振りにあっている。
 10月15日から24日まで、興津にいたことになる。
 
 11月11日に天津城主工藤吉隆の屋敷で教えを説いたその帰り、小松原(現在の鴨川市東条)で念仏信徒である地頭東条影信とその家臣に襲われた。
 この襲撃によって工藤吉隆と日蓮の弟子鏡忍が殉死し日蓮自身も怪我を負った、「小松原法難」がありました。

 興津から鴨川に戻って10数日後の出来事であったと言えます。
興津郷土史 清海村誌
勝浦市史 通史編
夷隅風土記     参考

興津と宗教(お寺)