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令和元年11月4日
26.10.17
転送先変更
1264(文永元)年 日蓮聖人43歳の時
伊東(静岡県)への流罪を許され、鎌倉に戻った翌年、母の見舞いのため故郷の小湊に戻ります。 11月11日、東条景信ら念仏信徒の襲撃に遭い、弟子を殺された、いわゆる「小松原法難」のあった年です。
以下 清海村誌 第十二章 社寺誌 釈迦本寺 より抜粋
文永元年10月、日蓮聖人は鎌倉より安房小湊の浦に帰省した際、時の領主佐久間兵庫頭重貞は日蓮の聖徳を伝え聞き、自身の居館にて妙法の本音を聴聞した。
その妙理の深達で高尚さに感激し、一般衆にも利益を広めるため10月15日より24日までの10日間教義を講じた。
たまたまその時に、興津町に悪疫が流行り、老若男女の多くが亡くなっていた。
重貞は聖人に疾病退滅を依頼した。
聖人は一片の介石を採り、これに妙経の要文をしたため、釈迦堂の側なる小井戸に沈め、井戸の水を病者に与えると、不思議なことに病が癒えた。
重貞はその功徳に感激し、嫡子の長寿丸を日蓮聖人の法弟とした。
とあります。
戦前までは、体調が悪い時に井戸の水を汲みに来て飲んでいたそうです。
しかし、今は食品衛生法により飲むことは出来ません。
代わりに、そっとなでて、無病息災を祈っています。
あなたもそっとなでにきませんか。
令和2年かつうらビッグひな祭り詳細は後日
新型コロナウイルスの影響で中止になりました。

ライトアップ風景
実は去年の4月4日にもクジラが漂着
しました。(下の写真) 1日違いです。
2年続けてのお騒がせ。
この時期、この辺にクジラが来ているのでしょうか。
平成25年4月3日クジラ漂着
4月4日午後無事埋葬
興津・鹿島神社の祭神は天祖天照大神の命により出雲民族の討平に偉勲を立てた 武甕(雍に瓦)槌命(タケミカズチ)にして 経津主命(フツヌシノミコト) 天児屋根命((アマノコヤネノミコト)
を配祀す。(清海村誌)とあります、
しかし鹿島神社の歴史は残っておりません。
彫り物は初代後藤義光作とも言われておりますが定かではありません。
何ができるわけではありませんが、楽しみながら、少しずつ文章を増やしていきたいと思います。
興津と宗教(神社)でご覧下さい。
下欄の文字をクリックして、興津の歴史をご覧下さい

日蓮上人が井戸に投じたと言われる経石
興津の昔をご存知の方、興津出身の皆さま、もちろん現在お住まいの皆さまにも上総興津情報を 「おきつ・いそっぴ便り」 として、お伝えしています。
興津今昔 |
右は昭和初期 昭和2年に国鉄が開通
左は現在 目黒区興津自然学園より 平成25年(2013)撮影 |
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興津の昔の写真募集
勝浦の友人から送られてきた興津の昔の写真(
興津の疑問に掲載中)をきっかけに地元で話が進み、仮称「興津・少し昔の写真展」を計画中。
写真以外でも、興津の昔のもの、お持ちでしたら声をかけて下さい。
「
興津の観光」にある「
おきつ人形」情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡下さい。
妙覚寺仁王門 右が昔の写真
かつうらビッグひな祭り