原始時代(縄文・弥生・古墳時代)

縄文後期 
  これ以降断続的に人間の生活の場があった。(興津中学校校庭や小学校裏遺跡から土師器や土器等が出土しています)

古代(奈良・平安時代)

養老四康申年5月(西暦720年) 
  興津字経渕に民家60余戸があって、この地に禅奥寺を建立。禅奥寺は勝浦市地域では最古のものと言われている。

天平17年(754)
  鹿島神社。現在の茨城県鹿島より山部赤人勧請と言われている。

中世(鎌倉・南北朝・室町時代以降)

正嘉 2年(1258)
  佐久間兵庫介重吉、同兵庫介重貞が奥津城「ゆうげの城」築城

文永元年(1264)10月15日より24日まで
  日蓮、奥津城主佐久間兵庫頭重貞の招請により興津にて布教
  重貞の子長寿丸(日保)と末弟竹寿麿(日家)を上人の法弟とし、妙覚寺を開基した。

文明19年(1487)
  妙覚寺「丁未九月日 大願主権律師」の銘記をもつ日蓮上人坐像が作られた。

天文 3年(1534)
  奥津城、真里谷武田朝信に占拠される。

天文13年 8月
  安房里見氏の武将正木時忠がこれを攻略。配下の岡本大学を守りに配備。

天正 8年(1581)
  大多喜城主正木憲時が反里見(里見義頼)の兵を挙げ、奥津城を根拠として安房に攻め入る(正木憲時の乱)が
  敗れて奥津城に退いた。
  しかし、里見軍の追撃激しく、憲時も同年城を棄て大多喜に退去した。

天正18年(1591)
  関東一円が徳川家康の支配下になり、奥津城は自然廃城となった。

近世(江戸時代)

慶長 2年(1602)
  釈迦本寺、妙覚寺日巌によって創建される。

寛文11年(1671)
  川村瑞賢。阿武隈川河口から江戸へ向う東廻り航路整備。

    九曜星の旗を掲げた千石船が入ってきた
      仙台藩の江戸へ向う廻米船で、画期的な東廻り海運の船であった

元禄12年(1699)
  小湊村と市川村の間で廻船役所の移転をめぐって争いが起こり、これをきっかけに米沢藩の廻米役所は興津村に移された。

元禄16年(1703)11月23日
  元禄大地震発生

寛政 5年(1793)
  村高769.995石 家数185軒

文化12年(1815)
  妙覚寺失火。全山17宇を烏有に帰した。

天保 7年(1836)
  妙覚寺仁王門起工

天保 7年 9月
  「上総国夷隅郡勝浦町外五拾ヶ村組合」と書かれた絵図によると、51ヶ村組合の惣代として押印している6名の中に奥津村の組頭
  治右衛門の名がある。かなりの存在価値を占めている。

天保10年(1839)
  妙覚寺仁王門竣工(勝浦市指定文化財)

弘化 2年(1845)
  仙台藩の陣屋はこの年の記録に「奥津陣屋」の文言があることからみて、幕末まで仕事を行っていたことがわかる。

安政 2年(1855)
  水戸藩の家臣酒井嘉煕の調査した絵図には「興津港船繋所」がある。

近現代(明治以降)

明治 4年(1871) 3月
  咸臨丸、上総興津沖で暴風雨により座礁・損傷。興津港にて修復。

明治 7年
  興津小学校として開校

明治 9年
  江戸時代には奥津の文字が用いられ、沖津・興津とも書かれた地租改正により「興津」に統一された。

明治22年 4月 1日
  町村制施行で興津、浜行川、大沢、守谷、鵜原の5ヶ村が合併。
  これらの村々は清海に面していることにより、清海村となる。

明治30年
  このころ廻米船は次第に寂れていた。
  東京湾汽船会社の蒸気船、通運丸を始めとして、その後3隻の汽船が東京間を往復していた。

明治38年(1905)11月24日
  興津の集落半数以上を焼失する大火事がおきる。

明治40年ころ
  暁の暴風雨。
   
   弁天岬寄りの船。雷に繋泊した帆前船(輸送船)上で女の助けを呼ぶ姿が見える。
   半鐘は高鳴る。消防夫や漁師達が海岸に集り、あれよあれよと立ち騒ぐ声。
    略  帆前船と運命を共に女の姿も怒濤にのまれてしまった。

大正10年 1月 1日
  町制をしき興津町と改名された。

昭和 2年
  国鉄房総線が全通。興津に駅ができると、東京湾汽船もその機能を失って就航しなくなった。

昭和22年
  興津町立興津小学校とした。

昭和23年
  妙覚寺の全国の澱粉工業協同組合により「岩瀬君碑」建立。

昭和30年(1955) 2月11日
  興津町消滅。勝浦町、上野村、総野村と合併。勝浦町となる。

昭和33年(1958) 9月18日
  台風21号による被害。これにより防災護岸築堤のきっかけとなる。

昭和33年10月 1日
  勝浦町が市制施行し勝浦市となる。
  有線放送を興津・勝浦に新設。全市に通信網完成。

昭和43年
  有線放送電話を廃止、地域集団自動電話へ

昭和44年 2月
  築堤にための地先官地払下げの土地登記、諸手続き完了。
  移動市役所の運行始まる。

昭和46年 
  興津公民館建設。

昭和47年
  外房線の電化完成

平成 4年
  興津バイパス開通(興津〜浜行川)
  勝浦市役所完成
  第12回全国豊かな海づくり大会開催。天皇皇后両陛下ご来勝。




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興津の年表






今回の整理の中では概ね

興津   とは 守谷のトンネルと行川のトンネルの間に住む我々、現在の興津区とします。
          勿論久保山台も含みます   

興津町  とは 現在の鵜原・守谷興津・浜行川・大沢までの地域を指します。
          明治22年より清海村となっていた時期がありました。

勝浦市史通史編 夷隅風土記 鈴木進随筆集 を参考にしています。